鳩摩羅什
鳩摩羅什
くまらじゅう
(三五〇-四〇九、『世界大百科事典』第二版では三四四-四一三)
Kumārajīva、また究摩羅什、鳩摩羅什婆、鳩摩羅時婆、拘摩羅耆婆、鳩摩羅者婆。
略して羅什、什公ともいう。
童寿と訳す。
父は鳩摩炎(鳩摩羅炎)といい、印度の名門貴族の人であったが亀玆国(Kucha)に赴き、若い国王と義兄弟となって王の妹・耆婆(耆婆伽)を娶り、遂に羅什を産む。
羅什は七歳にして出家し、日に千偈を誦し、また毘曇学を学んだ。
九歳のとき母に従って辛頭河(インダス川)を渡って罽賓国(Kaśmīra)に至り、王の従弟である槃頭達多を師とし、小乗を学び『雑蔵』『中阿含』『長阿含』等凡そ四百万偈を受け、また達多及び外道論師と論議し、国王も寺僧も羅什を敬崇した。
一二歳のとき母と共に故郷の亀玆国に帰り、また月氏の北山に赴いたが、その時に一人の羅漢が羅什を神異であるとし、母に「常にこの沙弥を守護すべし。若し三十五にして破戒せずんば、大いに仏法を興し、無数の人を度すること優波掬多(Upagupta)と異なること無かるべし。若し戒全からざれば、正に才明俊芸の法師なるべきのみ」と予言したという。
次いで、進んで沙勒国(Kashgar)に到り、仏鉢を拝し停まること一年、『阿毘曇』『六足諸論』『増一阿含』を誦し、具に其義に達した。
沙勒王は羅什をして『転法輪経』を説かしめ、羅什もまた、余暇に『転法輪経』『四韋陀』『五明諸論』『外道経書』『陰陽星算』等を博く覧て、これに悉く通暁した。
時に莎車(Yarkand)王に二人の男子があり、兄を須利耶跋陀、弟を須利耶蘇摩といった。
蘇摩は才技絶倫で頗る大乗の学に通じ、兄及び諸学者は皆共に彼を師としていた。
羅什もまたこれに師事し、『阿耨達経』を聞き、これより専ら方等大乗の諸経を究め、遂に『中論』『百論』『十二門論』等、龍樹提婆系の論書を受けた。
その後温宿国(Uch-Turfan)に到り、道士と論議してこれを挫き、たまたま亀玆国王に迎えられて国に帰り、広く諸経を説き、崇敬された。
王宮で受戒し、卑摩羅叉(Vimalākṣa)について『十誦律』を学んだ。
亀玆国では新寺に住したが、のちに寺の側の故宮の中で初めて『放光経』を得て、これを披読し、停住すること二年、広く大乗経論を誦し、その秘奥に通達した。
王は羅什のために金師子座を造り、大秦(ローマ)の錦褥を鋪き、羅什をして登座説法させた。
ときに罽賓遊学の師である槃頭達多が亀玆国に来たので、羅什は大いに欣んで師のために『徳女問経』を説いた。
槃頭達多は初めこれを信じなかったが、のちには大いに信服し、「和上は是れ我が大乗の師、我れは是れ和上の小乗の師」と言って羅什を讃えた。
そうしたことから西域の諸国の人々は悉く羅什に信伏した。
前秦建元一八年(三八二)九月、前秦王苻堅は驍騎将軍呂光らを遣わして亀玆及び焉耆(Karashar)諸国を討たしめ、かつ羅什を連れて来るように命じた。
これはさきに苻堅が襄陽檀渓寺から道安法師を長安五重寺に拉致し、道安から亀玆国に羅什なる名僧が居ることを聞いた故である。
時に羅什は亀玆国王白純に呂光と対抗して争うことのないよう進言したが、王はこれに従わず、戦って大敗し自らも殺された。
羅什は呂光に捕えられて陣中にあったが、そのとき羅什がまだ若年なのを見て、強いて亀玆国王の娘を娶らせ、羅什に迫って戒を犯させた。
次いで呂光は軍を翻えし涼州まで引き返したが、命令を出した苻堅が姚萇に殺害され、姚萇が同じ長安を中心として後秦を建国したとの旨を聞き、自身も涼州にあって独立し、後涼国第一代の王となった。
ついで呂光は没し、その後、後涼国は王位継承につき簒奪が相継ぎ、紆余曲折を経て呂光の甥の呂隆が王となったが、羅什は後涼国に拉致されたままいたずらに歳月を経た。
しかし、この間に羅什が漢語に熟達したことは、のちの長安において訳経に従事する上で、大いなる効果をもたらした点は重視されるべきである。
後秦弘始三年(四〇一)五月、第二代姚興は軍を派し呂隆を討ってこれを降し、羅什を迎えて長安に招致した。
時に一二月二〇日、王は羅什を国師の礼をもって迎え、西明閣及び逍遙園を羅什のために開放し、羅什はここにあって王命により衆経を訳出することになった。
羅什は四〇二年正月『坐禅三昧経』三巻、二月『阿弥陀経』一巻、三月『賢劫経』七巻、一二月『思益梵天所問経』四巻、同年中『弥勒成仏経』一巻を訳出した。
次いで弘始五年(四〇三)四月『大品般若経』の訳出を始めるや、国王姚興親ら訳場に臨み、旧経を執って羅什の訳出する新経と校合すること僧肇、僧遷ら五百余人、その義旨を詳らかにして、のちにこれを書き留め、明年四月にこれを三〇巻本として完成した。
よって王公以下は羅什に請うて、この新訳の『大品般若経』を造建した長安大寺において講説してもらった。
『百論』二巻も同年の訳出である。
更に翌弘始七年(四〇五)正月、秦王姚興は親しく逍遙園に赴き諸々の沙門を引見して羅什が仏経を説くのを聴講した。
同年六月、羅什は『仏蔵経』四巻、一〇月には『雑譬喩経』一巻、一二月には『大智度論』一〇〇巻、同年中に『菩薩蔵経』三巻、『称揚諸仏功徳経』三巻、翌四〇六年五月『妙法蓮華経』七巻(訳出当時は提婆品を欠き、後世の八巻本とは文脈にも多少の異同がある)、『維摩詰所説経』三巻、『華手経』一〇巻、『梵網経』二巻を訳出した。
因にこの年、かつての羅什の師卑摩羅叉が長安に来ている。
更に翌四〇七年五月、羅什は『坐禅三昧経』を重校し『自在王経』二巻を訳出。
翌四〇八年四月に『小品般若経』一〇巻を訳出し、四〇九年には『中論』四巻、『十二門論』一巻、その他『金剛般若波羅蜜経』一巻、『十住経』四巻、『成実論』二〇巻等、およそ三五部、二九七巻を伝訳した。
これは『出三蔵記集』第二に収められている経目によるもので『開元釈教録』第四によれば七四部三八四巻とされている。
このように大量の訳経が完成した背景には、羅什以前の訳経僧は概ね単独で来支ししため、持ち込まれる梵本も量が限られていたが、羅什は呂光の軍、次いで姚興の軍隊に囲遶されて来支したために大量の梵本が長安に運ばれたことが大きな起因となっている。
他にも羅什の前半生が示すように、羅什は大・小乗を兼学し、その枢要を熟知していたこと、亀茲国王族の出身であるために遭遇した師も当代一流の人士であったこと、羅什の蔵書(梵本)に諸国の王宮所蔵の善本が期せずして集まっていたこと、更に羅什が長安に来たという情報は直ちに中国各地に伝わり、その学殖を慕って長安に集まる人材が多く、これらの人々もまた訳場に列座し、羅什の訳場はそのまま講説の場であったこと。
羅什は途次後涼国に捕われの身となって一八年、その間中国語もよく覚え、仏教各国の言葉のみでなく漢語についても深い造詣があったこと等、多くの要因があり、『梵網経』訳出には三〇〇〇人『維摩経』では一二〇〇人、『法華経』では二〇〇〇人の僧が翻訳事業に参画したといわれる。
従って羅什の訳出した経論は、旧来訳出された経典の誤謬を指摘して改訂したと共に、その訳語が最も適切かつ流暢で正確なものとなり、従来訳出された経典が外国僧によるたどたどしい中国語訳であったのと対照的に、中国人にも容易に理解し得るものとなったことは特筆されるべきである。
中国仏教史上の一分類として、羅什以前を古訳時代、羅什以後を旧訳時代、玄奘以後を新訳時代と呼ぶ。
玄奘以後を別出するのは、羅什が来支した時代には未だ世親系の瑜伽、唯識思想に関するものが欠けており、龍樹系の中観思想に関するもののみが訳出されたことによる。
廬山慧遠は時代を同じくして中国の名僧であった。
彼は羅什に教えを請うべく長安に赴くことができなかったので、門下の逸材を次々に長安に派遣して修学させ、かつ自身も曇影らに托して羅什に諮問した。
『大乗大義章』(『問大乗中深義十八科』『法門大義』ともいう。『正蔵』四五巻)三巻は慧遠の問いに羅什が答えたもので、三論宗の源流並びに東晋時代の法身論を知るに足る重要書とされている。
秦王姚興はかつて羅什に「大師は聰明超悟、天下に比なし。若し一旦後世せば、法種嗣ぐものなからん」と言い、遂に遊女一〇人を羅什に与え、迫ってこれを受けさせた。
羅什はそれ以来僧坊に住まず、別に官舎を立ててもらってこれに住んだ。
ある日病気を患ったので「私は凡夫の身で多くの経論を翻訳することになったが、若し私の翻訳に謬りがなかったとすれば、身を焼いた後にも舌は焼けないであろう」と言った。
羅什はかくて弘始一五年(四一三)四月一三日、遂に長安大寺で没した。
年七〇歳。
逍遙園で荼毘したところ、ただ舌のみ灰にならなかったと伝えられる。
舌不燃のことは日蓮聖人が遺文にしばしば言及されるところである。
以上は大体、羅什の高弟である僧肇の「鳩摩羅什法師誄(るい)」(『広弘明集』二三)によって記した。
従来これが信用されていたからである。
しかし、慧皎の『梁高僧伝』第二に示されている所によれば、羅什の没年は弘始一一年八月二〇日とし、更に付記して「什の死年月、諸記同じからず。或は云う弘始七年、或は云う八年、或は云う十一年と。尋ぬるに七と七一とは字或は訛誤ならん。而も訳経録中、猶お十一年なる者あり、恐らくは三家に雷同して、以て正しきこと無かるべし」と述べている。
またこの説を支持するものに『歴代三宝紀』三、『歴代仏祖通載』八の記述もある。
近年では『成実論』二〇巻の訳出を四一二年九月(序『出三蔵記集』一一、『開元録』四による)とせず、四〇六年(『歴代三宝紀』八、『内典録』三による)とし、羅什の没年を弘始一一年(四〇九)とする見解が強くなってきている。
羅什が訳出した大乗論部はこの時初めて中国に伝来し、のちにこれを基として三論、成実などの学派が興起した。
また天台・禅・浄土などの台頭も、その根本には彼の訳業が貢献している。
彼の門下は三〇〇〇を数え、八○の達者ありといわれたが、中でも僧肇・僧叡・道生・道融・慧観・道恒・僧導・曇影・慧叡・慧厳などが優れており、道融・僧叡・僧肇・道生を関中の四傑、曇影・慧観・道恒・曇済を四英、両者を合わせて什門の八俊という。
《東大寺教学部編『シルクロ―ド往来人物辞典』、『遺文辞典』歴史篇「鳩摩羅什」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「鳩摩羅什」の項、小松邦彰・花野充道『法華経と日蓮』(春秋社『シリーズ日蓮』一)》
(野村耀昌)