浄土
浄土
じょうど
浄らかで汚れのない仏の国土のことをいう。
一般には凡夫の生活をしている苦しみや悩みごとの多い汚れた不安定な国土に対して、仏の住む心配ごとや憂いのない安定した浄らかな国土のことを指す。
この浄土については極楽浄土・寂光浄土・霊山浄土・蓮華蔵荘厳世界等諸経典によって、さまざまな浄土の世界が説かれているが、皆仏の国土のことを指しているのである。
極楽浄土というのは、浄土の三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)に説かれている浄土のことで「西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽と日ふ。其の土に仏あり。阿弥陀と号す」と『阿弥陀経』に説かれているように、衆生の生活しているこの娑婆世界を遠く離れた西方の彼方にある別の世界のことで、西方浄土とも安楽世界ともよばれている。
西方というのは道綽の『安楽集』によると「日の出づる処を云って生と名づけ、没する処を死と名づく」とあるように、死後の世界、即ち来世を表すものとして西方が考えられ、衆生の来世に往生すべき世界として、西方十万億土の浄土が説かれ、死後そこで仏になろうというのである。
つまり衆生は苦の娑婆を厭い、阿弥陀仏の他力にすがって極楽に往生しようと願う信仰を、浄土信仰というのである。
この信仰は専ら法然・親鸞・一遍らの浄土宗系の人々によって弘められた。
これに対して日蓮聖人は衆生の国土であるこの娑婆世界を離れて、死後に別の浄土を求めて成仏するのではなく、現実に人々が生きて働きながら、互いに努力し合って、この世で仏に成ることを考え、娑婆に即して浄土をこの世に建設して行こうとするのであって、娑婆即寂光の浄土を説かれたのである。
即ち、そのためには法華の正法を立てることが大事であり、それによって国土を安んじようとされたのである。
法華にすべての人々が帰することにより、三界はそのままで仏国となり、十方は悉く宝土となることができるというのである。
また『守護国家論』には「問ふて云く法華経修行の者、何れの浄土を期すべきや。答えて曰く法華経二十八品の肝心たる寿量品に云く、我常に此の娑婆世界に在りと。亦云く我常にここに住すと。亦云く我此の土は安穏。此の文の如んば本地久成の円仏は此世界に在せり。此土を捨て何れの土を願ふべきや。故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思ふべし。何ぞ煩しく他処を求んや」(定一二九頁)と述べている。
この土を捨て他に浄土を求むること自体が迷いであり、西方十万億の彼方にあるといわれる浄土へ死後の往生を願い、現実の土に生きていることの意義を忘却することのむなしさを強調している。
諸経において瓦礫荊棘の穢土として説かれたこの土が、浄土であるとしたなら「兜率・西方・十方の浄土」はどうなるのかというと、それについては「爾前の浄土は久遠実成の釈迦如来の所現の浄土にして実には皆穢土也。乃至、寿量品に至て実の浄土を定むる時、此土は即ち浄土と定め了ぬ」と寿量顕本により逆に「此土即浄土」の開顕がなされているのである。
更に『観心本尊抄』では「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり」として、仏界所具の十界を示し、法華経行者の住所は本来仏の国土であると開会されている。
また行者の未来は「霊山浄土」へつながるとして、霊山浄土往詣が説かれている。
《望月歓厚『日蓮教学の研究』、上田本昌「日蓮聖人における仏国土思想の展開」『日蓮教学の諸問題』、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と地獄・浄土」の項、『遺文辞典』教学篇「浄土」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「浄土」の項》