霊山往詣
霊山往詣
りょうぜんおうけい
霊山浄土へ参詣して、久遠実成の本仏釈尊を拝したてまつることをいう。
霊山とはインドの霊鷲山のことを指すが、日蓮聖人の教義上では単なる山の名としてではなく、法華経を信行する者の究極の境地を意味しているのであって、娑婆世界に即して顕現されてくる浄土を意味している。
→りょうぜん(霊山)・りょうじゅせん(霊鷲山)
さて霊山浄土へ往き、本仏に参詣するためには、唯一の条件として法華経を信じ妙法五字を受持することが要求されてくる。
それによって人々は昼夜に霊山へ往詣することができるとする。
日蓮聖人は『開目抄』の中で「我法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返てみちびけかし」(定六〇五頁)と述べている。
法華経の信心をやぶらない事がまず基本となるのであるが、その信心というのは寿量品に示されているような「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」という強力な徹底した信心でなくてはならないのである。
聖人の生涯は文字通りに自らの身命を惜しまず「大難四箇度、小難数知らず」という法難に遭いつつも、堅固な法華信仰を持続し、霊山へ往詣して本仏に面謁し、却ってまた救済のための努力を惜しまなかったのである。
聖人の場合は自分個人のみの成仏や往詣を考えるということではなく、常に人々と一緒になって法華信仰を勧めて行くことに重きが置かれて行ったのである。
『観心本尊抄副状』には「師弟共に霊山浄土に詣て、三仏の顔貌を拝見したてまつらん」と述べている通りであり、師弟共に霊山浄土へ詣でるということは、一人も漏れることなく「みな倶に仏道を成ぜしめん」とする本仏の本懐に根ざしたものであるといえる。
聖人は身延入山後に各地の檀信徒へ宛て出された書簡の中に、この霊山往詣に関する記述が顕著となっている。
その多くは没後に霊山浄土へ往詣するという形が多くとられている。
たとえば竜口法難の事件を記述した『種種御振舞御書』には「日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん」(定九六六頁)とあり、自身が頸を切られた後は霊山浄土へ詣ることを述べている。
『四条金吾殿御書』にも「日蓮此業障をけしはてて、未来は霊山浄土にまいるべしとおもへば、種々の大難雨のごとくふり、雲のごとくにわき候へども、法華経の御故なれば苦をも苦ともおもはず」(定四九五頁)とあって自身の未来は霊山往詣が約束されていることを明らかにしている。
一方檀信徒に対しては『上野殿後家尼御返事』に上野殿死去の後をなぐさめて「さだめて霊山浄土にてさば(娑婆)の事をばちうや(昼夜)にきき、御覧じ候らむ。妻子等は肉眼なれば見させ聞かせ給ふ事なし。ついには一所とをぼしめせ」(定三二八頁)とあり、上野殿は霊山浄土に在って常に娑婆の事を見たり聞いたりしている。
妻子のあなた方は肉眼なのでそれが見えなかったり聞こえぬだけである。
ついには一所であるとお考えなさい。
というのだが、夫は霊山浄土に往詣して、妻子を見守っていてくれるのであることを説いている。
またこの文の次に夫は法華経の行者となったので「いきてをはしき時は生(いき)の仏、今は死の仏。生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり」(定三二八-九頁)とあるのでもわかるように、霊山へ往詣して、そこで初めて仏に成るというのではなく、法華経の行者は生きながら仏であり、死後はまたそのまま霊山へ往詣して「生きの仏」から「死の仏」へと仏身が連続されることになるというのである。
つまり西方十万億の彼方に在るといわれている極楽浄土へ往生して、そこで修行し仏に成るというのではなく、法華経の行者は現身に即して仏に成ることができるのであり、また現実の娑婆世界に即して顕現される寂光浄土に住することができるとするのである。
これを即身成仏といい「娑婆即寂光」ともいうのである。
「生きの仏」から「死の仏」へというのは、娑婆即寂光・即身成仏の法華経行者が、臨終正念をえて、霊山浄土の本仏のもとへ往詣することであり、往詣は本有の寂光浄土への還帰を意味する。
従って霊山往詣とは、即身成仏の法華経行者が、本処である霊山の久遠本仏のもとへ還帰していくことになるのである。
聖人が檀越に向ってしばしば霊山往詣を説かれたのは「霊山」という仏の常説法教化の場を指示することにより、釈迦・多宝・十方諸仏を初めとして、一会大衆の儼然未散の光景が直感され、信仰者が実感的に浄土を具象化して感得することができるためであり「霊山」の語によって依報の国土も行者自身の正報も共に成仏開顕されることが強調されるからであるといえる。
法華経の行者は即身成仏であり、娑婆即寂光であるというのは「生きの仏」に対するものであり、「死の仏」に対しては霊山往詣が実感的に理解され、信仰的に感得することができやすいものといえる。
故に聖人の遺文に現れた霊山往詣は、主として対告衆が主人や子供に先立たれた女性及びその家族に与えられた書簡に最も顕著である。
たとえば『国府尼御前御書』には「又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん」(定一〇六四頁)とあり、『是日尼御書』には「霊山浄土にてはかならずゆきあひたてまつるべし」(定一四九四頁)、また『南条殿女房御返事』によれば「御所労の人の臨終正念、霊山浄土疑ひなかるべし」(定一五〇四頁)とあるごとく、未来は必ず霊山浄土へ往き、そこでまたお会いしよう、共に往詣しようという考えである。
更に『千日尼御前御返事』によれば「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし。御面(かほ)を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。
いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん」(定一五九九頁)とある。
千日尼は佐渡の阿仏房の女房であり、身延とは山海を隔てた遠処に住していたので、常には聖人と顔を合せることはできないでいたので、あえてこのような文面となっていったものと考えられるが「心は霊山に住べし」といい、いつかはきっと釈迦仏のおわす霊山会上で、またお会い致しますという表現の中に、聖人の霊山へ共に往詣するという実感がこめられているといえよう。
現世にあっては身延と佐渡で海山遠く離れて住んでいるが、心はいつも霊山で一緒になっている。
未来もまた霊山で「まひりあひ候はん」ことができるというのである。
これは先の上野殿後家尼に送った御返事のように「妻子等は肉眼なれば見させ聞かせ給ふ事なし」と同様であって、現世にあっては互いに肉眼で見たり聞いたりすることはできないが、心では互いに霊山に住して「まひりあふ」ことができるとするのである。
従って「往詣」は法華経の信仰によってのみ到達することのできるものであり、霊山はその信によって得られる純粋に宗教的な境界であるといえる。
法華経修行の者の住所は、園の中でも林の中でも、またいずれの所であっても常寂光土が顕現し、一歩も行かずに霊山へ昼夜に往復することができるというのである。
従ってこの霊山は単なる観念の世界ではなく、法界の当相に即して顕現される本仏慈悲懐中の世界であり、仏界縁起の国土であって、信の世界であるといえる。
故に聖人は身延山における晩年の御書の中で、しばしばその住所たる身延山を霊山とみなされているのである。
即ち「中天竺之鷲峰山を此処に移せる歟。将た又漢土の天台山の来れる歟と覚ゆ」(定一七三九頁)とあり、更に「天竺の霊山此処に来れり、唐土の天台山親りここに見る。我が身は釈迦仏にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず」(定一六五一頁)と述べて、身延山を「霊山浄土にも相似たり」とみ「霊山此処に来れり」とも感じられている。
この考えは年と共に深まり、入滅の前年頃になると一層鮮明となってくる。
即ち弘安四年(一二八一)九月に南条兵衛七郎に宛た御書によれば「此処(身延山)は人倫を離れたる山中也。東西南北を去りて里もなし。かかるいと心細き幽窟なれども、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。(略)かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」(定一八八四頁)と論じて身延山を霊山浄土に勝るとも劣らぬ処と指定し、更に「彼月氏の霊鷲山は本朝此身延の嶺也」と断定されるに至っているのである。
入山の当初は「いまださだまらずといえども、大旨はこの山中心中に叶て候へば、しばらくは候はんずらむ」(定八〇九頁)というように、永住するかどうかはかなり流動的なものであってが、しかし当初から身延山が「心中に叶て」いた処であったことには間違いないものがあったといえる。
これが九年間在住するうちに、身延山をもって霊山浄土であるというように表現されるに至ったのである。
聖人は『立正安国論』の中で「先づ生前を安んじ、さらに没後を扶(たす)けん」と述べているように、第一に現実の世界を仏国土化することに中心を置き、更にその上で没後の霊山浄土へ往詣することを願われたのである。
法華経の行者の住所を浄土と思うべしといわれた聖人の立場は、やがて身延山を霊山と考え「身延霊山」の説に発展し、昼夜に法華経の受持読誦によって、時々刻々に霊山往詣をとげることができるとされるに至ったのである。
霊山往詣はこのように聖人の成仏観、仏国土観の上に大きな意義をもっているのである。
《望月歓厚『日蓮教学の研究』、上田本昌「日蓮教学における浄土と穢土」『印度学仏教学研究』一九巻二号、同「日蓮聖人における仏国土思想の展開」『茂田井先生古稀記念 日蓮教学の諸問題』、『遺文辞典』教学篇「霊山浄土(りょうぜんじょうど)」の項、『日蓮辞典』「霊山往詣」の項》
(上田本昌)