本仏
本仏
ほんぶつ
本門の仏。
法華経本門寿量品の仏。
仏は法華経寿量品において「然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と近成を開して久遠実成を顕された。
久遠の仏は近因近果を会して遠の因果を開顕したのであるから、一切の諸仏(爾前迹門の仏)を能統一する唯一絶対の仏である。
このことを『開目抄』には「本門にいたりて、始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界の因果をとき顕はす。これ即本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(定五五二頁)と発迹顕本の意義を述べ、更に『開目抄』に「此過去常顕るる時諸仏皆釈尊の分身なり」(定五七六頁)、『法華取要抄』に「大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等十方の諸仏は我等本師教主釈尊の所従也」(定八一二頁)と諸仏に超越する久遠釈尊の絶対性を論述されている。
このように寿量品の仏は久遠より已来、我等と結縁の仏であり、我らとは父子の関係にある。
従って主師親の三徳を円満具足するのは教主釈尊を除いてありえず、ここに久遠釈尊を本門の本尊として尊崇するゆえんがある。
本尊とは信仰の対象として相対的でありつつ信仰を媒介とするゆえに内在的でもある。
超越の釈尊を自己の内在とすることが法華経の信心にほかならない。
これを聖人は『観心本尊抄』に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ」(定七一一頁)と超越の釈尊受領の信心を示し、更に「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏也」(定七一二頁)と五字受持による本因本果受領の世界を説示されている。
これは相対の仏が内在の仏であるという観心の世界である。
超越即内在の仏とは三身円満の無始の古仏である。
五百塵点という有量の無量に仮託して顕わされた無始久遠の仏とは、客体的本尊としての教門本尊が受持者内在の観心の本尊であることを意味しており、本門本尊即観心本尊、観心本尊即本門本尊という不二一体の世界である。
《『遺文辞典』教学篇「本仏」の項、『日蓮辞典』「本仏」の項》