爾前
爾前
にぜん
爾前経(爾前教)の略。
爾前とは、その前・それより以前、という意味。釈尊一代五十年の説法の内、法華経が説かれる以前四十二年間を爾前の時といい、その間に説かれた経教を爾前教という。
天台教学・日蓮教学において用いられる語で、天台大師の五時教判では、第一華厳・第二阿含・第三方等・第四般若の法華経開説以前の四時の教えを指していう。
爾前経所説の仏を爾前の仏、菩薩を爾前の菩薩と呼ぶ。
爾前の経々は釈尊が出世の本懐である法華経を説かれるまでの方便の教えであり、その得益は法華経大通の下種結縁によるものである。
爾前の諸経にも三乗各別の行法と一往の得益が説かれているが、その得道も久遠における法華経の下種が成熟しての得益であるから、所詮は法華経による得道となるのである。
日蓮聖人は爾前諸経には二種の欠陥があることを、「此等の経々に二つの失あり。
一には行布を存する故に仍ほ未だ権を開せず。
迹門の一念三千をかくせり。
二には始成を言ふが故に曽て未だ迹を発せず。
本門の久遠をかくせり。
此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり」(『開目抄』定五五二頁)と述べられている。
即ち十界互具、一念三千の法門と久遠実成を説き顕さない爾前教は成仏の正因とはならず、真の得益がないから「爾前無得道教」と称するのである。
更に華厳・方等・般若の兼対帯の円教も「尚仏因に非ず」と久遠実成の三身如来、仏種の一念三千、種熟脱の三義が無いから、真の仏因とならないと批判され、真の仏因は唯本門に限ることを強調されるのである。
更に聖人は『十章鈔』に「一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限る。
爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。
但真実の依文判義は本門に限るべし」(定四八九頁)と述べられて、爾前諸経の文は法華経迹門の義によって判ずべきであり、迹門の文は本門の義によって判ずることによりその真意が明らかになるのであって、真実の経文そのままに義を判ずることの出来るのは本門に限られるとされている。
即ち爾前経は法華経本門の開顕により位置づけられることによって、その価値が意味づけられるというのである。
《『遺文辞典』教学篇「爾前」「爾前経」の項、『日蓮辞典』「爾前経」の項》