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観心

かんじん #4746

観心

かんじん

教相に対する語で、己心を観ずること、修行すること。
(1)天台宗では観法の対境を大別すれば心と仏と衆生との三種がある中で「衆生法は太だ広く、仏法は太だ高し。 初学に於て難しと為す。 然るに心・及び衆生、是の三無差別(旧訳華厳一一)なれば、但だ自ら己心を観ずるは則ち易しと為す」(『法華玄義』二上、釈名段の「法」釈部分)という理由から、観法の中でも特に観心を重んじて心を観察の対境とする。
一心三観を用いて心の不可思議なあり方たる一念三千を証得しようとするのがそれで『摩訶止観』第七正修章に説かれる。
観心本尊抄』の能観題目段に「観心とは我が己心を観じて十法界を見る。 是を観心と云ふ也」(定七〇四頁)と観心の意味を定義しておいて、一念三千十界互具に、十界互具を人界所具の十界、人界所具の仏界、己心所具の釈尊へと凝縮するところはこれに当る。
そして最後に己心に釈尊を具することのできる理由として「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。 我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ」(定七一一頁)と、妙法五字の受持による仏の因行果徳自然譲与に言及されるところは、像法の観心たる十境十乗の観法に代うるに、唱題乃至三業受持を以て末代観心とする意である。
(2)『法華文句』の四種釈について、因縁・約教・本迹の三釈に次いで観心釈を施すのは「若し迹を尋ぬれば迹広く、徒らに自ら疲労す。 若し本を尋ぬれば本高く、高うして極むべからず。 日夜に他の宝を数ふるに自ら半銭の分無し。 但だ己心の高広を観ずれば無窮の聖応を扣き、成じて感を致し、己利を逮得す。 故に観心の釈を用ふるなり」(一上)と。
教相のみを尋ねたのでは、日夜他人の宝を数えるに等しく、自身に半銭の得分もなき故に、己心を観ずべく観心釈を用いるのであるといい、『文句記』にこれを更に扶釈して「一々句を心に入れて観を成ず、故に観と経と合して他宝を数ふるに非ずと云ふ」という。
つまり観心釈とは、経文の解釈だけに終ることなく、更に一々各々をわが心に入れわが事に当てはめて熟思することで、これを観心という。
ただし『文句』の観心は経文の観心釈であるから、託事観であり『摩訶止観』の従行観とは異なる(『止観義例』)。
観心本尊抄』に「迹門十四品の正宗の八品は(略)正像末の三時の中にも末法の始を以て正中の正と為す(略)本門を以て之を論ずれば一向末法の初を以て正機と為す」(定七一四-五頁)等といわれる末法・日蓮・弟子正機説は広義の観心釈にあたる。
また『開目抄』の五重相対の最後の教観相対の文は「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(定五三九頁)であるが、これを敷衍したところが次後の「本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。 四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ。 爾前迹門の十界の因果を打ちやぶて本門十界因果をとき顕す。 此れ本因本果法門なり。 九界も無始の界に具し、界も無始の九界に備て、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(定五五二頁)の文である。
久遠実成が説き顕されたとき初めて我ら九界は無始の九界・本因において価値づけられるとするところは、久遠実成という経文を我らに関係深きこととして観心釈したことになる。
そしてこれを従行観に移すとき、さきの『観心本尊抄』の受持譲与となるわけである。
(3)中古天台では経論疏に基づいた仏教の伝統的な教学を無視して、口伝や自分勝手な私見を交えた経文解釈・世界観・人生観を尊重し、これを観心と称する。
四条金吾殿御返事』の「檀那僧正は教を伝ふ、慧心僧都は観をまなぶ」(定六三五頁)の文の「観」は、次下に「慧心の法門はせばくしてふかし」とあるから、必ずしも中古天台ばりの観心を指すとは限らないが、大判すれば中古天台観心である。
また『十法界事』(定一四〇頁)『立正観鈔』(定八四六頁)『同送状』(定八七〇頁)に見える「観心の大教起れば、本迹爾前共に亡ず」(四重興廃)という場合の観心は教相を廃した観心優位であるから、この部類に属する。
(4)優陀那院日輝(一八〇〇-五九)らの宗学を「観心宗学」と称する(望月歓厚『日蓮宗学説史』、執行海秀日蓮宗教学史』)ときは、宗祖日蓮の衣鉢を忠実に祖述するよりも、時代の制約に従って、宗祖を如何に現代に継承すべきかという点に視点を置く立場をいう。
その結果、日輝は但信無解よりも有信有解を、専心唱題よりも事観の学解を、折伏よりも摂受を、等々と勧めたために観心宗学と称せられるに至り、田中智学らの批判を受けた。
《『遺文辞典』教学篇「観心」の項、『岩波仏教辞典』「観心」の項、『天台学辞典』「観心門」の項》

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