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五重相対

こじゅうそうたい #470

五重相対

こじゅうそうたい

五重教相、五段相対ともいう。 五重の相違を対立せしめるの意で、内外相対・大小相対・権実相対・本迹相対・教観相対である。
日蓮聖人教判の一つで、一代仏教を始め広く一切世間の教学思想の勝劣を教理の浅深によって比較研究し、次第に従浅至深捨劣得勝して、法華経寿量品に顕された事の一念三千妙法五字末法要法であることを論証したものである。 『開目抄』(定五三八-九頁)に主説されている。
ち「一代五十余年の説教は、外典外道に対すれば大乗なり。 大人の実語なるべし。 初成道の始より泥洹の夕にいたるまで、説くところの所説皆真実也(内外相対)。 但し教に入て五十余年の経々八万法蔵を勘へたるに、小乗あり、大乗あり(大小相対)、権経あり実経あり、顕教密教、軟語麁語、実語妄語、正見邪見等の種々の差別あり。 但法華経計り教主釈尊の正言也(権実相対)。 (略)但し此経に二十の大あり(本迹相対)。 倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず。 華厳宗真言宗との二宗は偸に盗で自宗の骨目とせり。 一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしつめたり(教観相対)」とあるに基づく。

(一)内外相対
広く世界の学を大別して、内道(教)と外道(バラモン・儒教等の教以外のすべての教学)とし、この二道を相対してを選び取る。 教は三世の因果を説き明かし、広く十界を説くのに対し、外道は現在のみ、あるいは過去・未来の一分だけを説き、法界観も人界等に局限し、その本尊も一惑未断の凡夫である。 従って三惑已断の仏陀の所説であるが真実であり勝れているとする。 そして聖人は、法華経の開会の精神に立って「外典を仏教の初門」、「外道の所詮は内道に入る即最要なり」と述べて、外道の法を生かされている。

(二)大小相対。
外道に対すれば、仏教全体は実語であるが、仏教の中において勝劣浅深を立てるとき、大乗小乗の相違がある。
経に約せば、阿含三蔵教は小乗、華厳・方等・般若・法華涅槃等は大乗であり、宗に約せば倶舎・成実・律は小乗、三論・法相・華厳・真言・天台等は大乗であり、この大小二教を相対して、小乗は仏教の初歩を語る方便説であり、仏教の本義を説く大乗に比較すれば劣るものとし、大乗を選び取るのである。
ち、小乗の仏は劣応身・有為の身であり、その所説の法は生滅の四諦で、偏真の空理を悟って六道三界の内における出離生死を説くのみであって、一切衆生悉有仏性や十方有の義を説かない。
大乗においては、仏は三身具足の勝応身であり、その所説の法も無生・無量・無作の四諦で、中道実相の理を詮し、十界の依正を説き、仏性の普遍を説いて、自利・利他の二者を満足させ一切衆生を得道させるから、大乗が勝れているとする。

(三)権実相対。
小乗を捨てて大乗を取ったが、その大乗教の中に権大乗と実大乗とがある。
権とは権仮方便の諸経をいい、実とは究竟真実の法華経をいい、これを相対して取捨を判ずるのである。 経に約せば、華厳・方等・般若の諸経を権大乗とし、法華経を実大乗とする。
宗に約せば、華厳・真言・法相・三論・浄土・禅を権大乗とし、法華宗を実大乗とする。 華厳・般若等の爾前四十余年の諸経は、調機入実の手段として仮に説かれた未顕真実の経であって、これを万機一乗已顕真実の法華経と相対するに勝劣浅深がある。 この権実を判ずる基準は「此に予愚見をもて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、先づ世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は二乗作仏久遠実成なるべし」(定五四二頁)とあるように、法華経迹門における仏性開顕論たる二乗作仏・一念三千と本門における仏身開顕論たる久遠実成との二箇の大事である。 ち権大乗二乗作仏久遠実成を説かないから、二乗・悪人・女人は成仏できない歴劫修行の教えであり、その教主も始成正覚の仏であり、種熟脱の三益化導の始終が説き明かされていない。
これに対し実大乗においては、十界互具一念三千の法門を明かして所化の教益は全うされ、久遠実成を説き顕して諸仏の統一が示され能化の実事が完了したから、実大乗たる法華経が勝れているとする。

(四)本迹相対。
法華実の中において、迹仏所説の迹門十四品と本仏所説の本門十四品とを相対し、その究竟・未究竟を判じて本門を選び取るのである。
これを聖人は『十章抄』に「一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず。 何に況や爾前に分たへたるなり。 一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限る。 爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。 但真実の依文判義は本門に限るべし」(定四八九頁)と述べ、『開目抄』に「迹門方便品一念三千二乗作仏を説て爾前二種の失一つを脱れたり。 しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。 (略)本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、(略)爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界因果をとき顕はす。 此れ本因本果法門なり。 九界も無始の界に具し、界も無始の九界に備りて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(定五五二頁)と宣明されている。
迹門二乗作仏一念三千を説いて一切衆生の成仏が可能であるという理を示したが、その教主は始成正覚有始有終の仏であり、仏の本因・本果・本国土の実を顕さない。 本門の開顕により法・仏ともに無始本有と顕われ、証悟は究竟するから、本勝迹劣と判ずるのである。

(五)教観相対。
本門の中に教相寿量品の文上の教説)と観心(寿量品の文底の経意)を相対し、観心を選び取る。
ち内外・大小・権実本迹と四重の相対によって法華経本門寿量品が最も深勝なることを明かしたが、「真実の依文判義」によって得られる「無始十界互具」の義は、本門寿量品の文上に顕示されているのではなく、この文上客観的教相に即して主観的に観心体達すべき文底に密示されているのである。 従って、その証悟の最後究竟的立場から、文義を適確闡明ならしめ、最後真実の人・法の所在、在滅得道の依止、末法弘通・受持の法体の所在を明らかにするべく、教観の相対をなすのである。
そこで寿量品文上を見るに、五百塵点等の法門は久遠を説くも、その時間を定めて有始の義を存し、因により果を得る説は迹門始成に順じ随他の本門である。 この文上有始久遠を能顕として所顕の文底無始久遠の三身常住十界真実を証得するのである。
ち文底(文義の奥底)に秘める一念三干から見れば、釈尊は三千世間の総体、無始以来の無作三身であり、衆生の己心に久遠本仏の顕現を得る随自の本門であり、題目の五字に帰結するものである。 前引『開目抄』の「九界も無始の界に具し」の「無始十界互具」は、まさしく文底観心・随自本門であり、「本門に至って始成正覚を破れば」は文上教相・随他本門である。
この教観相対は大小・権実相対等と異なり、寿量一品の上底相対である。 しかし文上教相寿量を離れて文底観心の妙法を見ることはできず、文底観心の妙法は文上教相の寿量によって顕されるのである。 文上の寿量を透して直ちに文底の妙法に達するのであり、文上と文底に未到と已到の差があり、行者からすれば、文底観心を主とするというも文上寿量を捨つべきでない。 従浅至深の教相上、一代仏教の心髄・法華経本門の肝心たる一大秘法妙法蓮華経を顕さんがために、一往、本門に教観を分かち勝劣取捨を判じたもので、もとより教観一致、教観不二である。 この教観相対を機根の得益の上から種脱相対という。

なお日蓮正宗教学においては、文上(釈尊の教え)と文底(日蓮聖人の教え)を相対して種脱を判じ、文上の本門正宗分一品二半を在世脱益の法とし、文底の要法五字を末法下種益の法として勝劣を論じ、末法においては下種の法たる日蓮聖人の仏教が勝れているとして釈迦脱仏・日蓮本仏を論じているが、これは法華経と日蓮聖人遺文とを曲解した謬説で、聖人の法華経観に悖るものであることはいうまでもない。
『日蓮辞典』『岩波教辞典』「五重相対」の項
(小松邦彰)

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