三益
三益
さんやく
種熟脱の三益をいう。
種熟脱を三益と称する例は『秋元殿御返事』に「種熟脱の三益」(定四〇七頁)という。
また『開目抄』によれば「種熟脱の三義」(定五七八頁)といってもよい。
三益には迹門の三益と本門の三益とがある。
『法華玄義』一上の標章段の教を標する所に三種教相を出す。
一には「根性融不融相」、これは五時八教の教判に相当する。
二には「化道始終不始終相」、ここで「又異とは、余教は当機益物にして如来施化の意を説かず、此の経は仏の設教の元始、巧みに衆生の為に頓漸不定顕密の種子を作すを明す。
(大通以後の)中間、頓漸五味を以て調伏長養して之を成熟し、又頓漸五味を以て之を度脱す。
並に脱し並に熟し並に種うること番々息まず。
大勢威猛三世に益物す」とて世々番々不息の種熟脱を明かす。
湛然が扶釈するところによれば、この第二教相は「且らく迹中の大通を指して首と為す」というから、化城喩品の大通結縁―種、中間五味―熟、「今世復た七教を以て調伏し、法華に至りて得度せしむ」と湛然もいうから、今日―脱である。
また種のところで「頓漸不定顕密の種子を作す」というについて、湛然は「漸及び不定に寄すと雖も余教を以て種と為さず」というから、下種の法は常に法華である。
三には「師弟遠近不遠近相」、これは寿量品に基づいて立てられた法華経の他経に異なる勝相であるが、師の釈尊と弟子との久遠の関係が説かれるのみで、三益には言及しない。
しかし第二教相で智顗が「大勢威猛三世に益物す」といった裏には、本門の三益もあることを示唆している。
大勢威猛とは涌出品の後半、本門正宗分・略開近顕遠に関する誡許の文「如来今諸仏の知恵、諸仏の自在神通の力(過去益物)、諸仏の師子奮迅の力(現在益物)、諸仏の威猛大勢の力(未来益物)を顕発し宣示せんと欲す」の文を指す。
この文は寿量品の「如来秘密神通之力」に相当するから、寿量品の説法を指すことになるとは周知の事実である。
従って湛然も第二教相は「且らく迹中の大通を指して首となす」とて、大通結縁を首初の下種とするのは且らくの措置であり、更には第三教相を待って化道の始終は窮極する意を言外に述べている。
第三教相としての本門の三益は『法華玄義』には明説がないが『法華文句』一上で因縁・約教・本迹・観心の四種釈の意味を説明する中の、因縁釈の説明部分で述べられる。
曰く、因縁とは仏と衆生との感応道交の意であるから、種熟脱の化道の始終に約するのが適当であるが「如来の自在神通之力・師子奮迅・大勢威猛之力は自在に説」くのであるから「節々に三世九世を作し、種を為し熟を為し脱を為す」のであるが、代表的に四節を挙げれば(私に図示)
衆生久遠令種仏道因縁 (久遠下種)―┐
中間以方便助顕真実成熟(中間熟益)―┼寿量脱益
今日雨華地動得脱 (今日脱益)―┘
久遠為種 (久遠下種)┐
過去為熟 (過去熟益)┼地涌等
近世為脱 (近世脱益)┘
中間為種 (大通下種)┐
四味為熟 (四味熟益)┼今之開示悟入者
王城為脱 (今経脱益)┘
今世為種――――――――┐
次世為熟――――――――┼未来得度者
後世為脱――――――――┘
であると。
一・二は久遠下種、三は大通結縁、四は仏滅後の三益である。
三の大通結縁による種熟脱を中間三益ともいう。
日蓮聖人の『三種教相』二本(定二二二八・二三九二頁)には天台三大部の中からなお多くの関係文献が挙げてあるが、三益に関する三大部中の代表的典拠は右の二処である。
聖人はこの説に基づいて重々に発展的三益論を展開される。
まず『開目抄』に「真言華厳等の経々には種熟脱の三義名字すら猶なし。
何に況や其義をや。
華厳真言経等の一生初地・即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり。
種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり、道鏡が王位に居せんとせしがごとし」(定五七九頁)、『本尊抄』に「華厳真言等の七宗等の論師人師の宗、(略)設ひ法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず、還て灰断に同じ。
化の始終なしとは是れ也」(定七一四頁、なお定八九七頁に同文)等とは化道の始終不始終の相に示された三益は独り法華経だけに説かれる特相であり、三益を説かない爾前経において如何に即身成仏や一生入地の得脱ありと誇ろうとも、種を知らない脱であるから嗚呼かましい次第である。
また各々の経の所被の機が脱益を得れば化縁が尽きて化道は終了するから、声聞が位を登りつめて無余涅槃に入り、灰身滅智して未来永々に三界との縁を断つのと同じであるといわれる。
「種をしらざる脱」の問題は内に爾前無得道論を含んでいる。
『三種教相』に「第二化道始終不始終爾 前得道を許さず」(定二二二九・二三九二頁)、「籤一に云く、垂迹より已来、受化の者漸く広し、久近の益を得ること、功は法華に在り」(定二二三五頁)というのは、三益論を根拠として爾前無得道を立てることの指摘であり、その理由は『曽谷入道殿許御書』に「問て曰く、華厳の時、別円の大菩薩、乃至観経等の諸凡夫の得道は如何。
答て曰く、彼等の衆は時を以て之を論ずれば其の経の得道に似たれども、実を以て之を勘ふるに三五下種の輩也(略)天台(文句一上に)釈して云く、衆生久遠等(四節の三益論の中の第一節)云云。
妙楽大師(記一上に)云く、脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐと」(定八九六頁)と。
各々の爾前経に得道(脱)ありとするのは、爾前経も仏の金言であるから虚事ではないが、その脱の根源は種にあり、下種の法は必ず法華でなければならぬから、爾前経の得道も実には法華経の得道であるという意味である。
この種の説明は遺文中に多い。
華厳経・観無量寿経等の菩薩凡夫の得道を『本尊抄』では「毒発」(定七一四頁)と呼んでいる。
また爾前経は熟益のためにあるのであって、脱益は得られないのに得道ありと説いていることを、後世「熟益の成仏」(熟益時における成仏)と称する。
その時の脱益は毒発にすぎないのである。
三益の教えは久遠本時・大通仏時・如来在世の教主は共に釈尊であるから「在々諸仏土常与師倶生」の経文の道理の通り、三益ともに教主は釈尊である。
滅後末法の行者は日蓮聖人であるから、末法の三益は聖人によって施されるといえよう。
この為、日隆門流・日真門流・日蓮正宗等においては、釈尊の本因妙時は上行菩薩であるからとて、久遠下種の教主を上行菩薩に求める。
次に下種の法は必ず法華経でなければならないが、これについて聖人は『本尊抄』に「一念三千の仏種」(定七一一頁)ともいわれ、また、「在世の本門と末法の初とは一同に純円也、但し彼は脱、此は種也。
彼は一品二半、此は但だ題目の五字也」(定七一五頁)とて、末法下種の法は妙法五字であるともいわれる。
ところが本抄の末にも「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此珠を裹み、末代幼稚の頸に懸さしめたまふ」(定七二〇頁)とある通り、妙法五字と一念三千とは一法の二名である。
さらにまた本抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。
我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(定七一一頁)とあるによれば、妙法五字の受持の当処に成仏が現前するわけであるから、これを種即脱という。
《『法華玄義』一上、『法華文句』一、『観心本尊抄』、『三種教相』、『曽谷入道殿許御書』、『小乗大乗分別鈔』、『遺文辞典』教学篇「三益」「種熟脱」の項、『日蓮辞典』「三益」の項、『岩波仏教辞典』「種熟脱」の項、『天台学辞典』「種・熟・脱」「毒発不定(どくほつふじょう)」の項》
(浅井円道)
図版