五味
五味
ごみ
梵語pañca rasāḥの訳で、五種の味という意味。
一には乳味、二に酪味、三に生酥味、四に熟酥味、五に醍醐味をいう。
これは『大般涅槃経』第一四聖行品に「譬えば牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出すが如し、醍醐は最上にして若し服するものあらば衆病皆除く、あらゆる諸薬は悉くその中に入ればなり、善男子よ、仏も亦是の如し。
仏より十二部経を出し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃を出す。
猶ほ醍醐の如し、醍醐というは仏性に喩う。
仏性はすなわちこれ如来なり」とあるによる。
この文は古来より、釈尊一代の説教の次第をいうものと理解され、諸家によって種々に伝えられている。
例えば吉蔵(五四九-六二三)は『大品経遊意』に「五味相生を辨ぜば、第一家は云く、十二部を阿含に配当し、修多羅を禅経に配す。
何となれば、定は能く智を発すれば、修多羅をもって禅経に配当するなり。
方等を波若、思益等に配し、波若を法華に配し、醍醐を涅槃に配するなり」ととき、また『三論遊意義』に「大経に五味相生と云うは解する師同じからず、劉虬云わく、仏より十二部経を出すとは、すなわち、これ世諦及び三乗別教なり。
十二部より修多羅を出すとは大品経なり。
修多羅より方等経を出すとは、すなわち維摩、思益等の経なり。
方等経より波若波羅蜜を出すとはすなわち法華経なり。
波若波羅蜜より大涅槃等の経を出すなり、すなわち、第五常住経なり」と説かれるが如くである。
天台大師智顗(五三八-五九七)は周知の如く、五時八教判を述べ、これによって釈尊一代の説法を分類し整理せんとする。
勿論、現在、この教判は智顗にあっては未だ完成をしていなかったという説があるが、既に智顗の『法華玄義』巻一には「五味」の用語が現れ、湛然の『法華玄義釋籤』巻一に「此の五味の教の相生の文は、第十三聖行品の末に在り。
仏は無垢蔵王菩薩を印し竟りて云わく、譬えば牛より乳乃至醍醐を出すが如く、仏より十二部経乃至涅槃を出すに譬う」とあるが如くである。
智顗は、この五味と『華厳』の三照譬と法華経信解品の領解段の文との三つを依拠として、五時を形成し、この五時をもって、教の相生を譬え、また機根の濃淡に約す。
教の相生とは乳等の五味が次第相生して乱れざるが如く、華厳・鹿苑・方等・般若・法華涅槃の五時もまた次第して相生する依拠とし、機の濃淡とは、また五味の濃淡の如く、所被の衆生の根性が浅より深に至るところの依拠とする。
乳味、ないし醍醐味とは、乳味についてはそれが牛より出だされたところの乳であれば、如何なる味であるかは周知の如くである。
これが時の至るに従って、その味をかえ、それが滋味なる醍醐の味に変わるところを五つの味に区分したわけであるが、実際にその各々との味が如何なるものであるかについては判然としない。
けれども智顗の教学にあっては、そのうちの乳味とは『華厳経』を指し、酪味とは『阿含経典』を指し、生酥味とは方等経典として『維摩経』『思益経』『楞伽経』『楞厳三昧経』『金光明経』『勝鬘経』等の諸経を指し、熟酥味は諸種の般若経典である『摩訶般若』『光讃般若』『金剛般若』『大品般若』等を指し、また次いで、醍醐味とは『法華経』と『涅槃経』を指すという。
この『涅槃経』の場合、これを後番五味と名づける場合があるが、前番五味とは華厳・阿含・方等・般若を経て、法華に至るまでをいい、その『法華経』の会座にあって入実せざるものを『涅槃経』において、再び教化するのを後番五味というのである。
天台教学におけるところの五味の理解は以上の如くであるが、それは前述した吉蔵などの立場とは異っている。
また天台教学においては蔵・通・別・円の四教の各々に五味を設ける場合がある。
即ち『法華玄義』巻一〇下に、「大経に云わく、凡夫は乳の如く、須陀洹は酪の如く、斯陀含は生酥の如く、阿那含は熟酥の如く、阿羅漢、支仏、仏は醍醐の如しと。
超果の者あり。
すなわち醍醐を得。
或は味味に入る者あり。
これすなわち三蔵教の中の三意なり、通教の中の五味とは、大経三十二に云く、凡夫の仏性は雑血の乳の如し、血はすなわちこれ無明、行等の一切の煩悩なり、乳はすなわち善の五陰なり。
是の故に我れ説く、諸の煩悩及び善の五陰に従って三菩提を得と。
衆生の身は皆精血に従って成就することを得るが如し。
仏性も亦爾り。
須陀洹、斯陀含は少しく煩悩を断ず、真乳の如し、阿那含は酪の如く、阿羅漢は生蘇の如く、支仏より十地の菩薩に至るまでは熟蘇の如く、仏は醍醐の如し、超果、不定は云云、別教に自ら五味を明すとは、第九に云わく、衆生は牛の新に生じて血乳未だ別たざるが如く、声聞・縁覚は酪の如く、菩薩の人は生熟蘇の如く、諸仏世尊はなお醍醐の如しと。
具に超果と不定とあり、云云。
円教は但だ一味なり。
大経に云く、雪山に草あり、名づけて忍辱という。
牛若し食せばすなわち醍醐を得と。
正直純一なり。
故に五味を論ぜず。
若し無差別の中に差別を作さば、名字即乃至究竟即に約して五味の相生を判ずるなり。
仏より十二部経を出すはすなわちこれ乳を出す。
新医の乳を用うるなり、四善根に約して発の中に就いて五味と為すべきなり」と述べられているが如くである。
この考え方は興味のあるところであるが、ここには五味解釈の一例としてあげておく。
《『遺文辞典』教学篇「五味」の項、『広説仏教語大辞典』『岩波仏教辞典』「五味」の項、『天台学辞典』「五味と五時」の項》