説教
説教
せっきょう
仏陀の教説を信者大衆に宣説すること。
わが宗においては、仏陀教説の真髄、法華経の種々相を譬喩、因縁等を使って説示することである。
法華経の安楽行品第一四には説教の心構えを次のように示している。
「菩薩常に楽って安穏に法を説け。清浄の地に於て状座を施し、油を以って身に塗り、塵穢を澡浴し新浄の衣を著、内外倶に浄くして法座に安處して問に随って為に説け、若し比丘、及び比丘尼諸の優婆塞及び優婆夷、国王王子群臣士民あらば、微妙の義を以って和顔にして為に説け、若し難問することあらば、義に随って答へよ。因縁譬喩を以って敷演し分別せよ、是の方便を以って皆発心せしめ漸々に増益して仏道に入らしめよ、嬾惰の意、及び懈怠の想を除き、諸の憂悩を離れて慈心を以って法を説け、昼夜に常に無上道の教を説け、諸の因縁、無量の譬喩を以て衆生に開示して咸く歓喜せしめよ、衣服臥具、飲食医薬、而も其の中に於て悕望する所なかれ、但一心に説法の因縁を念じ、仏道を成じて衆をして亦爾ならしめんと願うべし、是れ則ち大利、安楽の供養なり」と。
末法の弟子たる我等この意忘れてはなるまい。
説教という語が今日のように各宗共通語となったのは明治初年のことである。
明治政府の教部省は宗教政策の一環として各宗バラバラに使用していた言説布教の語を一括して、すべて「説教」と命名させるよう指導、各宗派がこれに協力して今日のような共通語となった。
わが宗においては、法華経如来神力品第二一の「転法輪」、薬王菩薩本事品第二三の「広宣流布」、普賢菩薩勧発品の「広令流布」、随喜功徳品の「転教」、『教機時国鈔』の「教法流布」、『祈祷経送状』の「弘通」、『法華宗内證仏法血脈』の「弘経」、『観心本尊鈔』の「弘法」、『道場神守護事』の「談義」などの語が用いられていた。
身延山を始め諸本山の制定などには「説法」の語が使われており、先の法華経、祖書からの引用の外に通仏教語も使用していたことがわかる。
他宗においては、禅門の「普説」「演法」「説法」、浄土宗の「談義」、真宗の「法談」などがある。
その他の異称としては、「説経」「説戒」「法話」「法義」「法座」「勧化」「化導」「喝導」「解説」「讃歎」「講経」「講釈」「講法」「講義」などがある。
わが国における最初の説教(この当時は講経と言っていた)は、推古天皇六年(五九八)聖徳太子が行った勝鬘経講であると伝えられる(関山和雄、『説教の歴史』)。太子は続いて法華経も講ぜられるが、聖人の法華経流布と合わせ考える時、説教の根本義「衆生をして転迷開悟せしめる」の意義がはっきりとしてくる。
説教の歴史を考える時、それは仏教の歴史ということもできる。
釈尊滅後弟子達は言説によって教えを守り、弘めてきた。
後年紙と文字の発達によって「経典」ができたが、これを講ずるのは言説であった事を考えると、仏教の歴史は説教の歴史といってさしつかえないと思う。
しかし時代が下るにつれて娯楽性の加わった説教(わが国の場合、説教節など)が出てくるが、これらは主流から除くべきものである。
わが宗に於ける説教の歴史もまた教団発展の歴史と同じと考えてよいであろう。
ただ今日までの教団史研究においては教学史の研究が主で、一般大衆を対象とした「伝道史」「布教史」「説教史」といったものは少ない。
教学と布教は一体のものであり碩学、即、布教者の場合も多いので、教学史の中に伝道史が包含されているという見方もある。
しかし反面、生涯に布教すること数千座という先師が教学史からはずれていることもあり、散失した資料も多いと思われる。
今後の研究のまたれるところである。
教少ない研究の中で、立正大学影山堯雄教授がその著書『日蓮宗布教の研究』に室町時代から江戸時代末期に至る約三〇〇年間の主な説教者名と登高座数を明示している。表がそれである。
一代で一万座以上つとめた人が九人、そのうち三人は二万座以上もつとめている。
伝道宗門の面目躍如というところである。
一口に一万座二万座と言っても実感がわきにくいので、近世布教史の中で代表的布教者といわれている霊鷲院日審に例をとり考えてみたい。
日審は生涯に二万座の説法をしたと伝えられている。
二〇歳から説法をはじめたとして六一歳で入寂されるまでの約四〇年間にあてはめてみると、大ざっぱな年割りで五〇〇座、月割で四五座、一日平均一座強ということになる。
日審は六〇余州をくまなく巡教されたと伝えられているので、交通事情、その他を考えると一日に何座もつとめたと思われる。かりに今日の時間帯に合わせてみても、年間五〇〇座はハードスケジュールである。
日審の不惜身命がしのばれる。
次に布教者の人数についてであるが、影山教授の資料に出てくるのは五五人、三〇〇年間で五五人はいかにも少ない。一つには資料不足と考えられるが、布教者となることがそれほどむずかしかったということでもある。
慶長一三年(一六〇八)発令の身延式目には次のようなことが定められている。
一、弘通説法の志を有する者は、本山に詣でて許文を申請すべき事。
一、談義の許しを請わんと欲するの時は、其の人の器量を択ばず、本山へ卒尓に申達すべからざる事。
(影山堯雄『日蓮宗布教の研究』)
右のような式目は他の諸本山に於ても定められていた(寛文五年制定の関東諸本山法式之条目他)。
又当時の教育機関である檀林に於ても、公開説法を行うものは能化(檀林の長)の許可状を受けた者に限る(千葉県飯高檀林制定)という規定があり、みだりに説法はできなかったのである。
以上のことから考えて、先の五五人は各時代の最もすぐれた説教者というべきであろうか。
次に説教口調というものが生れた。説教調が生れ、確立したのは江戸末期である。
徳川幕府は一連の宗教政策の中で、新宗旨の設立を禁止した。檀家制度の制定である。
宗教活動金しばりの中で各宗派が考えた事は、檀家の数はきまっているが、信者として客よせは問われないという点である。
説教師、説経師、布教師活躍の時代となったのである。
そこで語られる言葉は「教義」中心のかっての説教から大衆むけのものへと変化していった。
真宗の「節談説教」がそれであり、本宗の代表的説教口調「繰り弁」もその流れの中に入るものである。
江戸期、各本山が勧財、布教のための人集め手段として最も力を入れたのが「出開帳」である。
本宗出開帳のおこりは、宝暦三年(一七五三)四月一日より六〇日間、深川浄心寺で行った身延山祖師の出開帳である。
この出開帳の成功、不成功の鍵は説教師がにぎっていた。
当時の布教界には前座・中座・後座というしきたりがあり、前座と中座はせいぜい話の端緒か諷誦文読みしかさせてもらえなかった。後座の権威は絶対であったのである。
出開帳の時一人の後座が期間中(六〇日間)をつとめるのが習わしとなっていた。六〇日間ちがう話をするのである。
後座は話材が豊富でなければならない。
高座前には口うるさい老女連が陣どり、話の巧拙を云々する。
話術にすぐれ、声が通り、態度が堂々としていなければいけない。この時続きものの祖伝の繰り弁は大きな力となった。
聖人のご生涯は何人にも感銘を与えずにはおかなかった。
話がよければ一〇日間の日のべをした。
説教師の喜びの顔が目に見えるようである。
深川浄心寺の開張、金沢の千部、上総の五十座、各本山の出開張、これらが当時の桧舞台であった。
明治に入り布教の自由は認められたが、説教調口調は残った。
教団としての組織化とともに布教師の任命も宗務当局が行うようになり、養成機関としての「布教院」も生れた。
第二次世界大戦後、教団の組織化はさらにすすみ、今日の状況となっている。
《影山堯雄『日蓮宗布教の研究』、『遺文辞典』教学篇「説教」の項》
(菅野啓淳)
図版