飯高檀林
飯高檀林
いいだかだんりん
千葉県匝瑳市飯高に所在した。
洛北松ケ崎檀林と共に関東・関西における根本檀林、また小西・中村檀林と共に関東三大檀林の一つ。
寺号は法輪寺のち飯高寺、山号は妙雲山。
慶長元年(一五九六)蓮成(成)院日尊を初祖として開かれた。
その前身は比叡山での勉学を終えた要行院日統が、天正元年(一五七三)下総国香取郡飯塚(匝瑳市飯塚)光福寺に学室を開いた飯塚講肆に始まる。
しかし日統が天正七年三月七日に病のため没し、後事を託された叡山勉学時代の同学教蔵院日生があとを受け継いだが、大衆は年少の日生が談所の主導をとることに反発したため、飯高城主平山刑部と妙福寺住侶日因の招きにより飯高に移り、妙福寺に学室を開いた。
これを飯高談所といい、飯高檀林の前身とする。
天正八年(一五八〇)のことである。
この頃から蓮成院日尊を始め、法雲院日道、慧雲院日円、智寂院日豪、禅智院日感、祥智院日豪、中正院日友、真応院日達らの学僧が参集し活況を呈した。
その後、蓮成院日尊によって飯高檀林として盤石の基礎がつくられ、日尊を初祖、その開創年代を慶長元年(一五九六)とする。また飯高檀林の前身である飯高談所を開いた教蔵院日生は三大部を講じ、後世の檀林の規準となった階梯・年次を定めて指導したので、講経の鼻祖と称される。
第二世法雲院日道に次いで、慶長四年第三世化主として入檀したのが心性院日遠である。
日遠は師一如院日重に代わって化主となり『法華文句』を講じたが、この時、僅か二八歳であった。
日遠は慶長八年まで在檀し、翌九年には身延西谷檀林に招かれ開講する。
こうした日遠の学徳を慕い、かつて教蔵院日生の門下であった智寂院日豪(飯高五世)、中正院日護(同玄文講)、禅智院日感(同六世)、真応院日達(同八世)らの学僧が、こぞって日遠の門下として集っていった。
化主となった日遠はまず飯高檀林の法度「万代不易法律一五条」を制定する。
本法度とこれに日遠の弟子、第八世化主真応院日達が、元和四年(一六一八)に制定した「追加法度六条」は、現在みることのできる飯高檀林最古の法度で、そこに示された教育理念と修学課程のもとに檀林教育がなされたばかりでなく、その後、次々と開設される諸檀林の基本法度となった。
以下に全文を掲げる。
〈飯高檀林〉万代不易法律十五条
飯高学校 妙雲法輪寺
法 度
一、打擲 弐年追放之事 但於于堪忍之人者
可為沙汰之外
一、口論 一月文匣之事 堪忍之人同上 付
引籠衆者一月止於寄合
一、喧嘩口論之時助成之人之事
一、持筇笞出入者縦雖不及打擲可同打擲之罪事
或揚拳或被于抱護等之人者同悪口之
罪事
一、蹴鞠之事 過料四十字
一、盤上之遊之事 過料弐百字
一、長髪白衣之事 過料八字
一、市町帯脇差等之事 一月文匣
一、供養一汁一菜之事 付酒弐献
一、大途之祝儀並振舞可同供養事 但正月元
三与同十一月可為初献以小盞三度弐献以
中盞弐度也
不可立振事 付振舞於帰国之人並遠路事制之
一、誓句之事 過料四字
一、乱履之事 過料八字
一、無実申懸人者可同本罪事
一、万端可随上座之下知事 但於及衆義者一
往申所存再往可被任五人之義事
惣計法律十五条
右所定如件 妙雲山法輪寺
日遠(花押)
追加 日達(花押)
一、不可乱物読之次緒、其次第者名目、四教
儀、集註或備釈、集解、観心物之類文心
解。指要鈔 顕性録寺、倶舍或世間賢聖
或加界品根品等、直談或一部或流通、已
上不選器堪又老若共皆可学之、次不堪及
晩学等之者或但御書或三一或文句第八已
下、若有器量人者直談之次大部最後御書
一、読物次第者可任能化之下知是直談已下之
事也
一、学業懈怠而好遊覧人者不可在談所
一、新談義者必在談所可執行
一、公処説法者必取能化許状可致之
是与上座五人遂於評談能所共許之上則以能化
之真筆可被出許状
一、着衣之時必縮四籾不可乱威儀
元和第四(年)二月吉日
日遠制定の「万代不易法律」十五条は、上座の絶対的な下知のもとに学徒の檀林生活指導の徹底を図ったもので、その意図したところは徳行教育であった。
そして、元和四年日遠の弟子日達が制定した「追加」法度の第一条に「物読の次緒を乱すべからず」として、初めて名目部から止観部に至る天台学重視の修学課程を遵守すべき規制が現れる。
日蓮宗諸檀林の修学課程は、影山堯雄氏が指摘しているように天台学重視の課程であったが、かかる具体的な天台学重視の課程を制定し、それを制度化させたのは日遠であったと考えられる。
飯高檀林の前身である飯高談所の教蔵院日生が、早く修学の階梯・年次を定めたというが、日遠はそれを更に具体化したものであろうか。
かくて日遠制定の法度、修学課程は日遠門下生の蓮乗院日東、円照院日明、円是院日耀、寿量院日祐、一乗院日養、寂遠院日通が飯高檀林第一〇世-一五世化主として入檀すると共に、同檀林の基本規制として制度化した。
以降、飯高檀林ではそれを基に学徒の教育がなされ、日遠制定の天台学重視の修学課程は、五〇年後の承応三年(一六五四)頃の同檀林規制において「右の次第乱すべからざる者也」とされ、更に一五〇年後の宝暦年間においても、依然として「遠師の御定めに違反すまじきことなく」檀林教育がなされていた。
また、これより早く享保二年(一七一七)に入檀した第八四世化主智定院日永の代には、日遠の「万代不易法律」、日達の「追加」を毎夏講堂において全学徒に読ませてその徹底を図り、それは明治五年(一八七二)に至っても行われていた。
この日遠制定の法度、天台学重視の修学課程は飯高檀林のみならず、日遠開講の身延西谷檀林、寛永七年(一六三〇)の身池対論後、身延久遠寺の支配下に入れられた。
そして中村・小西檀林、更に日遠門下生が開講した京都山科、関東の池上南谷・三昧堂檀林など、日遠門下生が諸檀林へ化主として送り込まれていく過程のなかで、関東・関西諸檀林の基本法度、修学課程として制度化し定着していった。
これは諸檀林の修学課程を制度化し、統一の教科書、日遠著述を中心とする指導書によって、不受派に対する教権の確立を図り、日遠および日遠門下の飯高檀林を中心とする、つまりは身延山久遠寺を本山とする受派の檀林支配、教学の支配から教団の支配を意図したもので、それは見事に成功を収めた。
かくて飯高檀林は諸檀林の中心として名実共に権威と実力を備えた大檀林として発展していった。
檀林では日遠制定の規制のもとに学徒を教育したが、やがて有力な能化・上座が中心となり、学寮に学徒を集めて指導するようになる。
これが一つの学系を形成すると共に、教団内に一つの系統を成立させた。
のちの法類、法縁、法眷と呼ばれるものである。
即ち寛永年間(一六二四-四四)学徒監督の一方法として指南頭の制度を設け、上位のものが下位の学徒五-七人ずつ、各々分担して指導し、それを総括する指南頭が置かれた。
円是院日耀は最初の指南頭となり、その門下は飯高中台谷の地に学寮竜眠庵を創し、日耀を谷頭として、その学徳を慕う多くの学徒が集った。
中台谷の成立である。
これに対し、寛永九年寮内の寿量院日祐を慕う学徒は日祐を指南頭とし、中台谷より一段低い城下谷の地に学寮向城庵を創し、日祐を谷頭とする城下谷を成立させた。
更に寛文二年(一六六二)寂遠院日通が松和田の地に学寮松和軒を創し、日通の学徳を慕う学徒が集まり松和田谷を成立させた。
ここに飯高檀林には三つの谷指南、いわゆる三谷が生じた。
三谷は鼎立して次第に法類意識を持つようになり、その指南頭の法脈に所属する学徒は、その法類所属の学寮に入ることが制度化した。
その後、中台谷に一円院日脱を祖とする脱師法類が、城下谷に妙玄院日等を祖とする妙玄庵法類、成寿院日芳を祖とする樹下庵法類、守玄院日顗を祖とする中道庵法類の池上三法類、順正院日進を祖とする堺法類が派生した。
そして松和田谷にも堀ノ内法類、雑司ケ谷法類、千駄ケ谷法類、一ノ瀬法類が派生したが、谷祖寂遠院日通の師が法性院日勇であるところから、日通を始め松和田谷出身者全体を称して勇師法類という。
また六牙日潮を祖とする潮師法類もこの系流から派生した。
そして檀林内の谷、法類に所属する僧侶が住職として入住することを重ねる内に、その寺は自然と入住者が所属する谷、法類の縁故ある寺とされ、その寺を谷、法類の縁寺と呼び、本山格の大寺を出世寺と称した。
身延山久遠寺が、飯高檀林松和田谷の縁寺となったのは、谷祖寂遠院日通が寛文一二年(一六七二)四月、池上本門寺より身延に入山したことに始まり、また中台谷は延宝七年(一六七九)一円院日脱が京都立本寺より入山したことによる。
以降、この両谷は身延を出世寺とする位置を確保し、一大勢力をもつに至った。
また、池上本門寺は寛文一二年一乗院日養が城下谷より入山し、次いで妙悟院日玄が入山して出世寺としての位置を確保した。
一方、飯高檀林と並ぶ中村檀林の西法眷にも妙心院日奠を祖とする奠師法類、隆源院日莚を祖とする莚師法類、東法眷には久遠成院日親を祖とする親師法類、了義院日達を祖とする達師法類、通心院日境を祖とする境師法類が派生し、それぞれ京都妙顕寺、本圀寺、中山法華経寺、玉沢妙法華寺を出世寺とした。
つまり飯高檀林および中村檀林の谷出身者によって、関東・関西の大寺諸山は掌握され、しかもこれら谷祖、法類の祖といわれる人々は、ことごとく系脈的に心性院日遠より分岐している。
かくて飯高檀林は諸檀林の中心として、思想、教学の統一に大きな影響を与えたばかりでなく、それに連なる多くの学徒を輩出し、近世日蓮教団を組成する原動力となった。
なお昭和五五年(一九八〇)四月、同檀林の講堂等、主要建築物が重要文化財に指定された。
《影山堯雄『諸檀林並親師法縁』、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、冠賢一「関東諸檀林の形成と展開」『近世法華仏教の展開』、『国史大辞典』一一巻「飯高寺(はんこうじ)」・一四巻「立正大学」の項》(冠賢一)
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