日遠(心性院)
日遠(心性院)
にちおん
(一五七二-一六四二)
心性院と号し、字は堯順、一道とも称した。
元亀三年に京都の新在家、連歌師の宗匠石井了玄(日幽)を父に、法妙(日貴)を母として生まれた。幼名は岩千代麻呂。
六歳で本満寺日重について出家、はじめ堯順日珍、ついで堯潤日瑳、のち堯順日遠と改名。
天正一五年(一五八七)、一六歳で法華を講じ、聴衆はその神童ぶりに驚嘆したという。
その後南都で倶舎、律、瑜伽、唯識、華厳を学び、東山で大蔵経を閲した。
慶長元年(一五九六)に東大寺で実英に『華厳五教章』を聞いたが、この頃はまだ堯潤日瑳と称していたことが、蓮永寺(静岡)蔵の『聞書』の奥書でわかる。
慶長四年に飯高檀林の化主法雲院日道が身延に晋董、その後任の問題で、本満寺日重を招きたいとするもの、同檀の首座慧雲院日円を推すものの両派に分裂した。このとき中正院日友が日重を屈請するため京都に上ったが、日重は代りに弟子日遠を推挙した。ときに日遠は若冠二八歳であった。
飯高で講筳をはること六年『玄義』『文句』『集解』『文心解』『顕性録』などを講じた。
元政はこの間の名声をたたえて「学者嚮慕すること水の沢に趨くが如し」(『草山集』)と記している。
慶長九年三月、日乾退隠のあとをうけて身延に晋董、同年一二月西谷檀林を創設した。
同一三年一二月に、浄土宗との宗論である常楽院日経の慶長法難が起った。日経は幕府側の計略で敗れ、入牢を命ぜられた。家康は日蓮宗各山に対し、念仏無間は論拠のないそらごとであるという誓状を出せとせまった。日遠は身延の山主の立場からこれを断ったばかりでなく、その雪辱のため浄土宗と対論したいと申出た。家康は激怒して、安倍川で磔刑に処せんとした。
このとき、かねてから日遠に帰依していた家康の側室、養珠院お万の方は、ともに処刑されんことを願い出た。
家康はその志操堅固と信仰心に感じ、日遠を赦したと伝わる。
身延に帰った日遠は、翌年早々身延を退隠、近くの大野(のちの本遠寺)に隠居した。
元和元年(一六一五)八月に、幕命で再び身延に帰住、養珠院の外護で鐘楼を建立したが、翌年弟子日要に後職を譲り引退している。
寛永三年(一六二六)には、養珠院の寄進で大野の隠棲所に堂宇が建立され、本遠寺として寺院化していった。
大野にあってはこの頃関東諸山における不受不施義の隆盛に対し、受派の頭領としてその排除のために論陣をはった。
寛永七年、いわゆる身池対論の結果、不受不施義を主張した池上日樹ほかの諸僧が配流されたのち、同年七月一〇日、幕命で池上本門寺に入院することになった。
このとき池上はまだ日樹門下がおり、不穏な形勢であったが、お万の方は警護の武士をつけて無事晋山させたと伝えられる。
以後池上の代々の貫首は、日遠の法脈につらなる者が継承することになった。
翌年五月、ひそかに弟子日東に池上を譲り、鎌倉経ケ谷に不二庵を建てて隠棲した。
しかし、幕府はこれを正式には許さず、寛永一二年一一月に至ってようやく退任を許容されたのである。
晩年には、名実共に宗門を代表する高僧として仰がれ、師の日重、兄弟子日乾と共に宗門中興の三師と尊称された。
養珠院を始め、多くの信徒は度々不二庵に参って法話を聞き、比企谷妙本寺の造営や宝物の修復などに丹誠をつくしている。
寛永一九年、七一歳の老齢に達した日遠は、正月頃から五体の不調を知った。大聖人入滅の地を慕い、二月下旬に駕籠で池上におもむき、三月五日同所で遷化した。
遺骸は池上で荼毘にふされ、大野本遠寺に葬られた。
のち養珠院も師の徳行を慕い、遺言して同所に墓所を定めた。
三代将軍家光は同寺に封戸若干を寄せて一方の本山とした。
紀伊徳川頼宣は和歌山に養珠寺、水戸徳川頼房は太田に蓮華寺、仙台伊達忠宗は仙台に法運寺をそれぞれ創建、師を開山に迎えている。
また遺弟は一一〇余人にのぼるといわれる。
日遠の学系は、師の日重の系譜をひき、仏心院日珖の泉南教学に属した。宗学の立場からみれば台学偏向の傾向が強く、多くの批判もある。
当時宗門から脱宗『破日蓮義』を著した真迢は、日遠の台学偏重を指摘し、ただ教団護持に尽瘁していたため、転宗する勇気を持てなかったと評した。
また不受派の日講は「権実雑乱の人」「真迢は日遠の義を定規として邪義を興せり」などと批判しているが、不受派の祖本主義的強義とは相容れないものがあったのであろう。
むしろ従来の日蓮教学が法華経における絶対善を強調するあまり、余経をすべて排し、また一般社会の道徳的善業をも、法華経の前には否定しようとする態度に対し、これを是正しようとするもので、いわばかなり融通性をもった教学態度といえる。
更にこれが天台学に傾倒する志向をもったから、当然祖本主義の教学者からは批判をうけることになった。
著述には天台学に関する『玄義聞書』『文句随問記』『止観随聞記』『色心不二義』『文心解私抄』、法華経研究書として『法華経大意』『法華和談抄』『法華文段経』『法華三昧抄』『法華随音句』『法華音義』『法華訳和尋抄』、祖書に関しては五大部の百部摺本を刊行してその普及につとめたが、その註釈に『安国論私記』『本尊抄私記』などが知られる。
また宗義に関しては『当家本尊論義落居』、そのほか『祈祷瓶水抄』『如意宝珠抄』『自誓受戒作法』『無得道論』『童蒙発心抄』『自鑑慚恥集』『千代見草』などがある。
《『本化別頭仏祖統紀』、『身延山史』、影山堯雄『日蓮教団史概説』、石川存静『池上本門寺史管見』、執行海秀『日蓮宗教学史』、『草山集』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、稲田海素『宗門中興日遠上人略年譜』、日遠自筆『手記』本遠寺蔵、宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、同『日蓮宗徒群像』、『紀陽侯萱堂養珠夫人』、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』一一巻「日遠」の項》
(新倉善之)