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西谷檀林

にしだにだんりん #4712

西谷檀林

にしだにだんりん

身延山講学は、西谷草庵で日蓮聖人が門弟を教導されたことに始まる。次いで一一世行学日朝もまた大いに学徒を育した。 学校としては弘治二年(一五五六)に身延山第一四世善学院日鏡が西谷に学室を創立して学に努めたのをもって起源とする。 祖滅二七五年目である。
西谷檀林開基日鏡は永正四年(一五〇七)甲斐に生れ、若くして延山第一二世円教日意の門に投じて修学し、天文一三年(一五四四)三八歳一ノ瀬妙了寺第八世より入山、在職一三年大いに山勢の発展に努めた。弘治二年五〇歳で、職を宝蔵日叙に譲り、西谷の勝地をトして浄室を営み、その号をもって善学院と名付け、所化を集めて学に努めた。 当初規模微少で未だ学室と称すべきものであったが、後の西谷檀林(身延檀林とも呼んだ)はここに発祥した。 上人学三年、永禄二年(一五五九)四月二五日遷化、世寿五三歳であった。
弘治二年創設より、明治七年(一八七四)の廃檀に至るまで約三〇〇年、西谷檀林は宗門学の発展と、法器人材の育成に多大の貢献をなした。 爾後当檀出身者の法子法孫、または出身者持寺院住職者を「鏡師法緑」(西谷法縁)と呼び、その団結を鏡師講と名付け、当檀有縁先師の法功を追憶し、その末葉の繁栄を祈り、当番を定め毎年報恩会を修する慣わしである。
西谷檀林の興起発展の端緒を考えるに、次の様に推測されるのである。

遠因 日遠以前の歴代の
   学日鏡の西渓退蔵
近因 各所檀林の勃興
   日遠の延山伝燈

西谷檀林の変遷、本宗の檀林史については、既に大正七年(一九一八)五月、影山堯雄、関観朗、井上恵宏三師共著に成る『諸檀林並に精貞法類』があり、詳細周密の研究が掲げられているが、当西谷檀林については、第五章(一三八頁)「西谷檀林善学院」の項において「当檀は慶長一九年(一六一四)心性遠師、祖山第一四代善学院鏡師隠栖の地に学室を設けて講を開きしに始まり、明治七年(一八七四)新居薩師の閉鎖に終る、其間二六〇年幾多宗門の法器を撫育した。当檀林に関して既に先輩吉田素恩師『大崎学報』第三三号以下に精述詳論せられしを以て、今は譲って平に略す」とある。 今同師の研究に従って当檀の変遷を一暼すると、吉田師は次の如く区分しているが要約して見ると、第一期=準備代、弘治二年日鏡学院を創す、第一五世日叙、一六世日整らまた老後をここに養い、門子を養した前後とす。
第二期=興隆代、二二世心性院日遠、慶長九年入山、一二月学院を改めて育の大道場とした、日鏡がこの地に隠栖してから五〇年後であった。 日遠は久遠寺主職として多忙にもかかわらず、よく檀林の基礎を固めた。 西谷檀林は日鏡を開祖に、第一世化主を日遠とする。
第三期=大成(全盛)代、日遠の講席を助け、檀林の基礎を固め次いで第二世の化主となったのは、身延山第二三世慧眼日祝で、これにより第七世化主智日邃(ずい)に至る三〇年間は、西檀史中大成、また全盛代ともいうべき期である。 当西檀の学校的規模微少であったが、講師の人格はよく雲集の学徒を掌握し、化主の権威殆ど綸言の如く行われ、宗門の人材を輩出し、もって西檀の存在を世間に認めさせた代である。
第四期=暗黒代、第七世化主日邃、寛永二〇年(一六四三)遷化後、種々の情により講論の一時中絶した間をいう、正しくは絶講時代ともいうべく、その期間は寛永二〇年から、身延山第二九世隆源日莚(えん)が檀林再興を成就した寛文八年(一六六八)までの中間二五年である。 絶に至った原因には二つの由が考えられる。 一つには檀林経営の資糧が当時全く欠乏したこと、二つには日邃遷化後、能化に人を得られなかったことである。
第五期=復興代、寛文七年、隆源日莚、京都妙顕寺より身延山第二九世に晋むや、深く西檀の中絶を慨し、入山の翌年勇を鼓して各種の困難を打開し、再興の浄志を逐げた。 寛文八年、興源日遼が中村檀林を退いて当檀第八世化主として文句を講じ、翌九年安藤壱岐守慈父追善のため講堂を建立寄進したが、この頃より物心両面の外護者輩出し、檀林の声価揚ると共に東西より学徒負笈し来り、甚だ盛況を極め西檀史上前と称し得るに至った。 後世西檀の一権威として師徒に重視された「万代式目」の条文が備わり、具体的に制定され、かつ更に修学の順能所の日課、年中行及び科書の決定等皆本代の当初においてであった。 徳川幕府の中頃に至ると、東西諸門合せて二〇檀林を数えるに至ったが、その主なるものは、関東八檀林と称された飯高・小西・中村・西谷・南谷・玉造・松崎・水戸の諸檀林、及び京都六檀林と数えられた松ケ崎・求法・鷹ケ峰・鶏冠井・東山・山科の諸檀林である。
次に第六期=持続代は前期に組織制定された古株を墨守するのほか何らの発展のなかった代で、年代的には元禄末より慶応初年に至る一六〇年であった。 本期においては、檀林の内部が形式を具備したのに反して、その精神面が次第に降下の傾向を示し、「古檀林従らに繁文縟礼、唯形式のみに拘泥せり」との誹りを受けたゆえんは、本期の状態を指称したものであるといっても過言ではない。

檀林頽敗の状況は、物久しければ弊生ずの道理で、寛政の頃になると、権威も薄れ、頽敗の状顕著なるものがあるに至った。 本院よりしばしば檀林に使僧を派して「日夜怠慢無く、令法久住の志を励むよう」申渡しがあった。 またこの代数々の不祥件があった。 檀林側と身延山第四六世守慎日唱との対立、延いては日唱の除歴件、紅衣着用免許の可否より起った破檀の一件、篠原件、その他幾多の問題が起った。 今は内容記述を略する。 明治維新の大怒濤を浴びる以前において、檀林自体衰滅の因子を内含していたといえる。
西谷檀林の建物について見るに、大講堂は寛文九年安藤壱岐守の寄進せるもので、西檀の諸建物中神聖かつ最も主要の地位を占めたが、明治八年の火災後本山に移され、本師堂と称し一〇〇年間重用されたが、今次七〇〇遠忌記念大本堂建立計画に伴い解体された。 その他檀林の必要施設は概ね完備し、学徒五〇〇人を常住せしめた。
日蓮宗では飯高・小西・中村、三檀林を大檀林と称し、その他は前記三林の通用または附庸という如きもので、これらは俗に火打箱檀林と呼んだという、小檀林の意である。 しかし西檀が永年大檀林を凌ぐ程の盛況を呈したことは、全く祖山大霊地の余光に基づくものであった。
日遠の慶長九年開檀より、二七一年を経過した西谷檀林の廃止は、明治七年一一月二三日第七三世法主新居日薩の下に山内寺中会議が開催され、山内改正一六ヵ条が定められ、その第九条において決定した。 この廃檀の措置はやがて東京に統合大檀林をつくるためであった。 以後宗門学制の制定に則して、身延山亦伝統に従い、時運に鑑み教育機関の整備に努め、時に財政上の困難を打開して今日の身延山短大、同高等学校を育生した。
《林是幹編『西谷檀林略史』、同「身延山に於ける檀林教育について」『日本仏教学会年報』三六号、『諸檀林並精貞法類』》
(林是幹)

【補記】平成二〇年、西谷鏡師法縁より縁祖四五〇遠忌記念として『西谷檀林・西谷法縁略史』が刊行された。

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