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身延山

みのぶさん #4885

身延山

みのぶさん

山梨県南巨摩郡にある山で、標高一一五三メートル。
日蓮聖人が文永十一年(一二七四)五月一七日に到着され、一ヵ月後の六月一七日に、現在の西谷の地に草庵を結び、爾来弘安五年(一二八二)九月まで、約九年をすごされた山である。
聖人五三歳から六一歳までの晩年を、門下や檀信徒化と述作についやされた。
聖人はこの身延山のことを「いまださだまらずといえども、大旨はこの山中心中に叶て候へば、しばらくは候はんずらむ」と入山の当初から述べているように、心中に叶った山として居を構えられるに至ったのである。
地頭の南部六郎実長(波木井公)は所領であった身延山を聖人に寄進し、篤く帰依したのである。
それ以来、身延山は日蓮聖人のお山として今日に至っている。
弘安五年一〇月一三日池上で入滅された聖人の御遺骨は、遺言によって身延山に奉安されている。
聖人棲神の霊山として広く世に知られるに至っている。
入滅の前年(弘安四年)十一月に大・小・馬舍を造営し、妙法華院身延山久遠寺が落成した。
聖人の滅後は、六老僧を中心として廟所を守るための「守塔輪番制」が敷かれたが、のちに佐渡阿闍梨日向が白蓮阿闍梨日興のあとを継いで常住することになり、久遠寺の第二祖となった。
久遠寺の住職のことを「守塔沙門」と呼び、「法主」と称するようになったが、第十一代の法主である行学院日朝の代に、廟所の地に在った久遠寺を現在の位置へ移した。
草庵跡は谷あいのため土地も狭く、湿気も多いので、寺観の整備発展を目ざして現在の地へ移転し、堂塔伽藍を逐次増営して今日に至っている。

日蓮宗にとって「総本山」であり、聖人のみ魂の鎮まる「霊山身延」については、古来、多くの文学作品の中にも取上げられており、聖人自身が記された遺文の中にも身延の風光を記されたものが数多く遺されている。
身延山をもってインドの霊鷲山や中国の天台山に勝るとも劣らぬ名山であり、最勝の「霊山浄土」であると考えておられていたことがわかるのである。
特に檀越に与えられた消息文の中には、身延山の位置・地勢・季候・自然の状況・周囲の状態等について詳しく、しかも美文をもって綴られており、名文といえる作も数多く見ることができる。
聖人以外の後人によって記された身延山関係の文学作品を拾ってみると、まず「謡曲」の中に「身延」という曲目がある。
これは吉野朝から室町代以後にかけて盛んに行われたものであり、内容は日蓮聖人(ワキ)が、身延の山中で法華経を読誦されている際に、女性の亡霊(シテ)が現れて読経拝受の功徳を感じ、得脱成仏をうるという筋である。
身延山には古くから舞台があり、こうした能楽も盛んに舞われたのである。
身延の山の風の音、水の御声もおのづから、諸法実相とひびきつつ、草木国土、悉皆成仏の霊地なりけり」という言葉で結ばれている。
次に謡曲で有名なのに「現在七面」がある。
これは七面山に棲む竜女が日蓮聖人の説法を聴聞し、その法力よって得脱し、更に歓喜して広く法華経の行者を守護しようと誓約して、白雲にのり虚へ立ち帰って行くという筋である。
前シテ里女、後シテ竜女、ワキ日蓮聖人
この謡曲は七面信仰と共に、多くの人々によって親しまれていった。 また江戸代に入ると、庶民の間で盛んとなった文学作品の中に、身延詣を中心とした法華信仰を扱ったものが数多く生まれるに至った。
例えば『日蓮聖人御法海』の第四段には「道行身延笠」という戯曲がある。
これは『日蓮記兒硯』を並木鯨兒、並本正三らが添作修補したものであり、日蓮聖人身延入山を扱ったものである。
また万治二年(一六五九)八月に、深草の元政は七九歳の母を伴って、身延山参詣の旅に出発し、道中記を残している。
この『身延行記』は漢詩文・和歌を交えた名文であり、数多くある身延関係の紀行文中、特に秀れた作として知られている。
八月一三日に京都深草の庵室を出発してから、東海道を上って二五日に身延山へ到着、諸堂を巡拝して奥之院まで登る。
二八日身延山を下って池上へ向い、一○月五日関が原に至るまでの紀行文である。
この他にも落語で円亭九狐の「身延詣」や「鰍沢」「甲府い」、仮名垣魯文の紀行文『身延道中録』などを始めとして、身延山を扱った作品は枚挙にいとまがない。
また部分的ではあるが、明七年(一七八七)に蝶夢が書いた『宇良富士紀行』には、身延山へ詣でたの様子が記されており、門前町・参道・僧房伽藍の状態を知ることができる。
清水浜臣の『甲斐日記』にも身延山へ詣でたの日記が残されており、諸堂や山内の状況を知ることができる。
十返舍一九も江戸から身延山へ甲州街道を通って、富士川を下り富士の岩渕に至るの道中記を著している。
また仮名草子の『妙正物語』には、子が骨を身延山へ納めてほしいと遺言する場面もある。
この他に吉田兼信の『甲駿道中之記』、黒川春樹の『並山日記』、松亭の『松亭身延紀行』、霞江庵翠風の『甲州道中記』等、それぞれ身延詣の紀行文として見るべきものが多い。
また新しいところでは、徳富蘇峰(猪一郎)が『身延参詣記』『深秋色遊記』を著し、「身延文庫」の典籍にもふれて貴重な文献について語っている。
歌人若山牧水も『身延七面山紀行』を記しており、大正一三年六月、宗祖入山六五一年目の開闢会(かいびやくえ)当日に来山して、その法会にもつらなっている。
また「甲州七面山にて」と題し三○余首の短歌を遺しており、『若山牧水全集』に収められている。
七面山については登山家として知られている深田久弥の一文もあるが、古くは大中院慈忍日孝の『七面大明神縁起』があるし、身延山については貞亨二年京都で開版された『身延鑑』がある。
また洛陽之沙門によって著された「身延山根元記」、山内の全容を図で表した『身延山図経』、円教院日意の「身延伽藍記』、遠沾院日亨の『宿房之定(さだめ)』等により往時の身延山を知ることができる。
安永五年(一七七六)三月に紀州候第九代徳川治貞(はるさだ)に使えた篤子が、身延参詣をしたときに記した『安永身延紀行』も和歌を交えた身延紀行文として知られている。
また中村経年(金水)は『日蓮上人一代図会』の中で『身延山御書』を参考としながら、身延山の自然を描与し、更に七言絶句を加えている。
肥前平戸の松浦静山も『甲子夜話』の中で身延について書いている。
また江戸代には俳諧の方面にも多く身延山が詠われ、著名な俳人らによって、数多くの作品が遺されており、これは川柳の場合も同じことがいえる。
宗門の僧俗によって作られた漢詩も銘吟が多い。
身延の山内には天保二年に建立された芭蕉蓼太・完来の句碑がある。
御命講や油のやうな酒五升」という芭蕉の句のほかに、「此の山の茂りや妙の一字より 蓼太」「法華経とのみ山彦も鳥の音も 完来」という二句が刻まれている。
身延の山にふさわしい句である。
また宮沢賢治の歌碑も三門の側に建立されている―「塵点のをし過ぎていましこの 妙のみ法にあいまつりしを 賢治」。
歌人吉井勇も身延山に来て次のような短歌を遺している―「甲斐はよし身延の山に日蓮の いともありがたきお骨を置く 勇」。

 姉崎正治、田中智学らもそれぞれに身延山を表した文を記している。
戯曲や演劇・映画にも日蓮聖人はしばしば登場してくるが、そのつど身延山の日蓮聖人は劇の中でも、晩年の九年を大自然の中ですごした状態を中心としながら描かれている。
しかし、そうした中にも小室山の善智法印や下山の法喜阿闍梨らとの法論問答の場や、鵜飼勘作・あるいは七面竜女といったヤマ場があり、「身延の祖師」だけをとってみても鎌倉や佐渡におとらぬ名場面が多い。
例えば『南(ときみんなみ)身廷御利益』は安政四年(一八五七)八月に森田座で興行されたもので、三世瀬川如皐(じよこう)の作であり、草双紙仕立の筋書であるといわれている。
身延を扱った演劇の主な場面は、法喜阿闍梨と善知法印の二人の山伏が日蓮聖人と問答を行い、山伏たちは敗北したので、毒曼頭をもって聖人を亡き者にしようと計ったが、法華経守護の諸天善神が白犬となって顕れ、聖人の身代わりとなって守護するという有名な毒難の段を始めとして、七面天女示現の高座石の段などが中心となって、当は大きな反響を呼び、興行成績も抜群であったといわれている。
また「常盤津」の「七里姫」も七面山因縁にまつわるものとして有名である。
この他にも小説家によって描かれた「身延の祖師」や浪曲の「身延の日蓮聖人」等、枚挙にいとまがないが、史実に沿いながら身延の日蓮聖人を描いたものに、身延山短期大学の元学頭松木本興の『身延のお祖師さま』(昭和二四年六月、身延教報社刊)、上田本昌の『身延の日蓮聖人』(平成一一年六月、銀杏堂刊)がある。
《『遺文辞典』歴史篇「身延山」の項、『日蓮辞典』「身延山」「久遠寺(身延山)」の項、『史大辞典』四巻「久遠寺」の項》
(上田本昌)

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