仮名垣魯文
仮名垣魯文
かながきろぶん
(一八二九-九四)
江戸末期より明治初期にかけて一世を風靡した戯作者・新聞記者。
本名野崎文蔵、幼名は兼吉、後に庫七、諱を能連(よしつら)という。
江戸京橋に生れ、幼にして貧に育ち若く父母の膝下を離れ、長じては戯作者を志しての放浪と貧困の生活に埋没した。
やがて時を得て文壇に雄飛しジャーナリズム界の寵児となったが、急進する時勢に乗じきれず、明治近代文学の黎明の中で、江戸戯作の遺老として取残され窮状の中で死んだ。
その六六年の生涯は変化に富んだ奇人の一生として興味深いものがある。
作品および作風としては、維新前はもっぱら合巻物の草双紙を執筆していたが、万延元年(一八六〇)の『滑稽富士詣』が出世作となり、初めて彼の滑稽の才が認められ、世間は彼を呼ぶに今三馬の名をもってし、続いて矢次早に発表した『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋』『胡瓜遺』などにより滑稽本作者としての地位が確立した。
作品には同工異曲の駄作が多いとの評がある。
宗門関係のものとして『身延道中録』『身延往詣順道記』などの名が知られている。
《『国史大辞典』三巻「仮名垣魯文」の項》