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和歌

わか #1069

和歌

わか

山上ゝ泉の「日蓮聖人和歌考」(「立正学報」九七、昭和二五・六)では、伝日蓮聖人作和歌二四首を検討しているが、「仮、偽作、攙入などがあって、総てを信憑することが出来ない」とする。
まず「身延三首」(身延山二八世日奠の『身延記』初見)の
(1)「立ちわたる身のうき雲も晴れぬべし絶えぬみ法の鷲の山風」、
(2)「おのづからよこしまに降る雨はあらじ風こそよるの窓をうつらめ」、
(3)「蘆の葉のかたちは船に似たれどもなにはの人をえこそ渡さね」がある。
近代に作曲されて宗歌として用いられて来たものである。
(1)は、漢文『註画讃』(慶長六年=一六〇一刊)に初見とされ、(2)は御遺文『三沢御房御返』(二一〇三頁)に「越後にて此歌詠じ候ゆへ書送り候也」として出ている。
(3)については、右の「和歌考」には引いていないが、室町期の豊原統秋の『體源抄』一二に、「若以小乗化乃至於一人我則隨樫貪此事為不可といふことを 日蓮大菩薩御哥」として示すものがあるが、第二句が「すがたは船に」とある。
経文は方便品
なお、「知らぬ山は富士のね郭公雪きえぬとて五月わするな」の歌もあわせて掲げており、統秋は「私云、二首ながらさても句法といひ、哥のたけといひ勿論権化の御ことわざとはいひながら殊勝なるものかな」と賛美している。
和歌考」にはこの郭公の歌はあげていない。
次に『持妙尼御前御返』の末尾に添えられた二首がある。
「ちりしはなをちしこのみもさきむすぶなどかは人の返らざるらむ」「こぜもうくことしもつらき月日かなおもひはいつもはれぬものゆへ」。
和歌考」では「古来の歌集では未見の哀傷歌でもあるので、その調姿の繊細さや内容の柔軟さに幾分の検討を須ゐねばならぬ所が見られようが、而も斯ういった慰問的消息類の質上、一応聖詠と解すべきであらうと信ずる」としている。
以上「身延三首」と御遺文の二首を含めて、伝聖人和歌の主要なものにつき、その伝来や信憑はなお今後もさらに研究を要しよう。
次に聖人は御遺文の中に、話材として和歌、歌人を引証されることが折ある。
著名なものに、真言律宗への批判のために、歌人の祈雨の先例を引いたものがある。
「いかに泉式部と云(い)し婬女、能因法師と申せし破の僧、狂言綺語の三十一字(みそひともじ)を以て忽にふらせし雨を、持持律の良観房は法華・真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給ふ上人の、数百人の衆徒を率て七日之間にいかにふらし給はぬやらん」(『頼基陳状』定一三五四頁)『下山御消息』『種種御振舞御書』にも見え、名を出さないが『報恩抄』にも見える。
和泉式部の祈雨説話は小野小町のそれと混同したものであろうか。
あるいは和泉式部に有名な貴船詣の説話があり、貴船が水神であることからの類想かもしれない。
能因の伊予三島明神(大山祇神社)に祈って「あまのがは」の歌を詠み、雨を降らせた話は『十訓抄』など諸書に見える。
また歌人の代表として柿本人麻呂をあげ「ほのぼのと」を代表歌として示す例が、『開目抄』『聖密房御書』などに見える。
「例せば先に人丸(ひとまろ)がほのぼのとあかし(明石)のうらのあさぎりにしまかくれゆくふねをしぞをもうとよめるを、紀のしくばう(淑望(よしもち))源のしたがう(順)なんどが判じて云く、此歌はうたの父うたの母等云云。今の人我うたよめりと申して、ほのぼのと乃至舟をしぞをもう、と一字をもたがへずよみて、我が才は人丸にをとらずと申すをば、人これを用ふべしや」(『聖密房御書』八二二頁)
なお、『聖愚答鈔』に「あはれなり鳥べの山のタ煙をくる人とてとまるべきかは」「末のつゆ本のしづくや世の中のをくれさきだつためしなるらん」を、『法華初心成仏鈔』に「葎をいてあれたるやどのうれたきはかりにも鬼のすだくなりけり」を、『光日房御書』に「山がらすかしらもしろくなりにけり我がかへるべき時やきぬらん」などの古歌引用の例があり、御遺文の本文批判や関連説話の調査と共に検討が必要であろう。
佐々木馨「日蓮と文学―和歌・歌人の受容をめぐって」(『中世説話の世界』所収)では、「日蓮は戒律観、己の宗教的姿勢および一種の嫌悪感という三つの理由から、和歌・歌人に対して否定的な態をとっていた」と推定し、それがその後の日蓮団で変容していったかとしている。
なお吟味せねばならぬが新しい視点であろう。
近世以降の聖人傳に、藤原為家(定家の子)について和歌を学ばれたとするものがあり、前記山上ゝ泉の「和歌考」では、その初見を『本化別頭高祖伝』(享保五年=一七二〇)としている。

平安中期以来、追善供養などのため『法華経』二八品の要文を和歌に詠むならわしが生じ、その後中世末まで永く行われた。
その初めのものに、藤原公任・赤染衛門らの集や選子内親王『発心和歌集』などに見える歌がある。
岡崎知子「釈歌考」(『文学研究』(一)昭和三八年)では、『八代集』の経旨歌六六首のうち、二八品歌は四八首を占めるとする。
また平安期より江戸初期に至るの釈歌三千三百数十首のうち、詠法華歌が過半数を占めるという別の調査もある。
(小川霊道「類題法文和歌集注解」「東洋学研究」第十一号、昭和三〇年)『法華経』自体が文学的要素に富み和歌化しやすいこと、またその書写供養法華八講等の法会などの盛行によるものである。
島地大等著『漢和対照妙法蓮華経』の付録に、法華歌集があり、各品ごとに古今の二八品歌が集められているのは便利である。
ただ和歌における法華経受容が天台宗などの圏内に多く、日蓮宗門内外でのそれを特立させて考えることは仲々困難な点も多い。
宗門関係ではやくこの面に着目したのは、山上ゝ泉で『日本文学と法華経』(大正一三年)、『歴世法華文学物語』(大正一五年、昭和五三年復刊)などに言及したが、近時高木豊『平安時代法華史研究』(昭和四八年)に、平安代の法華経歌について成立、形態と会、歌題と作者、念、数量的考奈などにわたって詳しい考察が試みられている。
また立正大学法華経文化研究所刊『法華文化研究』創刊号に、坂輪宣敬「宮内庁本『法華経和歌集』について」の中で、従来の法華経和歌集の種々について概観したあと、立正大学の同研究所に収蔵された宮内庁書陵部の八種の法華経和歌集の複写資科のうち、『品経和歌』(九点合冊。室町期)について紹介されている。
こうした資料収集とその研究は、今後も文学界での文学研究の動向と呼応しつつ、展開されてゆくものと期待される。
日蓮宗門の僧侶の中で、歌人として活動した人の歌集の中では、近世の深草元政上人『草山和歌集』が卓越している。
島原泰椎「『草山和歌集』の配列と成立について」(「文学研究資料館紀要』第三号、昭和五二年)によれば、同書は元政没四年後寛文一二年(一六七二)に刊行され、一五〇首を収めているが、ほとんどが元政の自選編集によるものかとされる。
元政の歌風は温雅な中に敬虔な宗教味をもつ。
辞世「鷲の山つねにすむてふみねの月かりにあらはれかりにかくれて」。

そのほか永い和歌史の上で、日蓮宗に属する僧俗の歌人は多くあろうし、また身延、池上その他宗門の古刹参詣の歌なども交え、熱心な信仰を吐露した作品も多数あることと思われる。
山上ゝ泉『歴世法華文学物語』では、紀州侯第九代徳川治貞に仕えた老女篤子(あつこ)(姓未詳)の歌文集『安永身延紀行』や、源氏女、長養院妙生日久(にちく)夫人作『法華経全品歌』を紹介している。
そうした稀覯書も含めて、今後の調査がまたれる。
山上ゝ泉『日本文学と法華経』、『歴世法華文学物語』、「日蓮聖人和歌考」『立正学報』九七号、佐々木馨「日蓮と文学―和歌・歌人の受容をめぐって」『中世説話の世界』、高木豊『平安時代法華仏教史研究』、『国史大辞典』一四巻「和歌」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と和歌」の項
(新聞進一)

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