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持妙尼

じみょうに #2266

持妙尼

じみょうに


じみょうあま。日蓮聖人在世の信徒。
また窪尼とも称するのは駿河(静岡県)富士郡(現・富士宮市)久保村に住した故とされる。
本化別頭仏祖統紀』によれば「窪氏持妙」としながらも、その蹟は未詳としており生没年等も不明である。 玉沢系の史伝は松野六郎左衛門の内室とし、『高祖年譜攷異』では西山翁の内室かと推測しているものの、遺文の内容とのくい違いが有り、史実とするには問題が残る。 ち一説に、松野氏の内室とすれば「只一人の女子あり」という文に相応せず、西山翁を大内安清とすれば当安清は生存しており「故入道殿」とある文に合致しないとするのである。
遺文によれば、夫の没した後に亡夫の命日や折につけて身延の日蓮聖人の許に供養の品を届けたようで、弘安二年(一二七九)には僧膳料を送っている。
《『遺文辞典』歴史篇「持妙尼」の項、『日蓮辞典』「窪の尼」の項、『昭和新修』別巻「持妙尼(窪尼)」の項、『日興門流上代事典』「持妙尼」の項》

【補記】
持妙尼」は富士郡西山の河合入道の娘で同郡賀島の高橋六郎兵衛の妻であった。 高橋六郎は建治元年秋の頃病床に伏し、同年一一月初の頃に没した。 妻は病体の夫を看護する中に落髪し尼となった。 在家尼としての名は「妙心尼」で日蓮聖人によって付された法号である。 六郎も発心し入道となった。 夫妻同のことであったろう。 病を縁としてのことである。 これらを証する史料に次の記録がある。 日蓮聖人が建治二年二月染筆の曼荼羅本尊(尼崎本興寺蔵)に弟子日興が「富士西山河合入道女子高橋六郎兵衛入道後家持妙尼」との添書文である。 六郎死後、多分は百ヶ日忌頃の授与とおもわれるが、妙心尼持妙尼と法号が変わったのである。
ところでまた、弘安三年四月揮毫の曼荼羅本尊(京都妙顕寺蔵)は「尼日厳授与之」であるが近時の修理作業によって紙背に「持妙女之」との日蓮聖人の念記が見出された。 持妙女の日号が日厳であるわけだが、これによって故六郎入道の未亡人はかつては妙心尼であり、今は持妙尼(持妙女)であり尼日厳であった。 そして実はこの婦人は夫死去後に実の西山郷の窪の地に「をさなき人」「一人をはするひめ御前」を伴って転居し、そのことから日蓮聖人はこの婦人を呼んで「窪尼」と称したのであった。 まことに異例であるが、史料実は一婦人に付するに四種の名を見出せる。なお、この婦人は日興の母の妹で叔母であった。
《『日蓮辞典』「持妙尼(じみょうあま・じみょうにょ)」の項、池田令道「日興上人書写御書の考察」(『興風』一号)》

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