妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

松野六郎左衛門

まつのろくろうざえもん #3569

松野六郎左衛門

まつのろくろうざえもん

(生没年未詳) 駿河(静岡県)松野の領主六老僧海外伝道の祖、蓮華阿闍梨日持(一二五〇-)の父。
建治二年(一二七六)二月身延聖人にあてて、種々の品物を届け、聖人から「いまだ見参に入り候はぬに、何と思し食し御信用あるやらん」(定一一四一頁)と、一面識もない儘に教を受けられたのが今日ある『松野殿御返』類である。
松野の邑主であった松野六郎左衛門行易は、現在の法蓮寺の土地に居館を構え、その出所は不明である。
初代六郎左衛門は、建保年(一二一三-一八)京都西華門院の蔵人職にあり、貞応年(一二二二-二三)勢に感ずるところあって松野郷に居を移したと伝えられる。
松野に居を構えた行易は、伝説によれば、非常に人格が高く政の及ぶところ挙村悉くその風に化したといわれ、当時天台宗の巨刹岩本実相寺を々訪ねて、台密の義を学んでいたという。

 行易には三人の子供がおり、長子行成と次男日持、長女上野尼御前であるという。
行易が聖人の信徒となる以前は、北条氏の援護者としてこの地域を守っていた関係上、聖人の教義である法華経には、少々受入れ難い立場であったは想像がつく。
聖人との交流は建治二年からで、聖人が身延に居を構えてから約二年程経ち、その間に身延の噂を色々と耳にされたであろうが、これには行易の長女が上野郷の地頭南条兵衛七郎に嫁し、早くから聖人の強力な信徒になっていた南条氏からの感化を受け、聖人身延入山により行易も信徒に加わったのであろう。
聖人との関係については、書簡があるのでここに部分的に記してみる。
建治二年二月一七日身延聖人から行易に与えた『松野殿御消息』に「然るに在家の御身として皆人にくみ候に、而もいまだ見参に入り候はぬに、何と思し食して御信用あるやらん。是偏に過去の宿植なるべし」(定一一四一頁)とあり、また同年一二月九日の『松野殿御返』には、「其故は、法華経を持つ者は必ず皆也。
を毀りては罪を得る也」(定一二六六頁)、「然るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて僧をも供養し給ふが肝心にて候也」(定一二七三頁)。
「倩世を観ずるに、生死無常なれば生ずる者は必ず死す」(定一二六七頁)。
また建治三年九月九日の『松野殿御返』に「但在家の御身は余念もなく日夜朝夕南無妙法蓮華経と唱へ候て、最後臨終のを見させ給え(略)我等も必ず其の数に列ならん」(定一三八九頁)。
また同四年二月一三日の『松野殿御返』に「山中のすまい思遣せ給ふて、雪の中ふみ分けて御訪ひ候、御志定めて法華経十羅刹も知食し候覧。(略)委細は見参の時申すべし」(定一四四一頁)と記されてあるので、最初は贈り物と御返だけであったが、建治四年頃から聖人を訪ねて色々と教えを聞き、熱心な信者となっていったらしい。
松野行易夫妻、その子行成夫妻にあてて、建治二年から弘安三年(一二八〇)までの書簡は十一通ある。
書簡の内容は贈り物の感謝の意と法華経の功徳を、経典、故を引用し述べたものであるが、行易らの日常の疑問に答えたものとみられ、智者の唱える題目と愚者である我らの唱える題目と、その功徳に相違があるのかと、朝夕唱題の安心や臨終の観念などについて教えを受け、松野一族の信仰や教学理解が強く高いものであったが窺われる。
松野殿屋敷跡から発掘された古塔に記されている行易の死亡年月は、弘安三年六月八日になっている。
これが実なれば、父の遺志を受継いで行成も聖人えを受けたに違いない。
この行成こそ日持を助け、松野に蓮永寺(現在の永精寺)を建立し、支援者になった実である。
しかし松野一族と日持、その他の関係について、その後のは残念ながら不明である。
なお、「六月八日」の命日について、子の日持が大願主となって造立した池上本門寺安置日蓮聖人の御影像の像底銘は「正応元年六月八日」とある。開眼日としての年紀であろうが、日持は故父の命日をあてひそかに追福作の意をこめたのであろう。
《『松野郷土史』、松野陸奥夫『松野一族』、『富士川町史』、『遺文辞典』歴史篇「松野六郎左衛門入道」の項、『昭和新修』別巻「松野六郎左衛門入道」「松野家後家尼」「松野六郎左衛門尉」の項、『日蓮辞典』「松野氏」の項

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