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南条兵衛七郎

なんじょうひょうえしちろう #972

南条兵衛七郎

なんじょうひょうえしちろう

(-一二六五)
駿河富士郡(現・富士宮市)に住していた聖人の有力な檀越である。
本化別頭仏祖統紀』によれば、南条新左衛門頼員の弟で、妻は松野六郎左衛門の女であるとしている。
聖人の遺文中、南条一族に宛たものは数も多く、南条兵衛七郎夫妻を始め、南条七郎次郎光夫妻、南条平七郎、南条九郎太郎らに及んでおり、五〇篇を超えている。
聖人は地名をとって南条一族のことを「上野殿」とも称した。
日蓮聖人御遺文講義』によると、南条兵衛七郎は、南条七郎次郎時光の父であり、北条時頼の近習であったので「兵衛」といい、文応・文永の頃に聖人の教化を受け、念仏を捨て法華に帰依し、文永元年(一二六四)病魔におそわれたが、信念決定の力によって平癒し、一家を挙げて益々信仰を深め、同二年頃に臨終正念にして歿したと伝え、文永一一年の『上野殿御返』に「故上野殿は善人なり」(定八一九頁)とあり、弘安二年の『上野殿御返』には「故上野殿をこそ、いろあるをとこと人は申せしに」(定一六二一頁)とある点から、その人柄の一端を知ることができるとしている。
また妻については、夫によく仕え看病を尽したが、夫と死別後は尼となって子の七郎次郎及び当胎内にあった弟七郎五郎を育成し、聖人門下の中でも模範的な婦人であったとしている。
聖人は「上野殿後家尼御前」とも「上野殿母御前」とも「上野殿母尼御前」とも称して、しばしば御書を送られている。
甲斐公日持はその実弟であるともいわれている。
次に次男の七郎次郎は若くして父の督を継ぎ、時光と称して父母と共に篤く聖人帰依し、身延入山の聖人に折りある毎に供養の品を送り外護丹精をぬきんでた。
弘安二年(一二七九)の熱原法難は陰に擁護したとも伝えられている。
また弘安五年に大病をわずらった聖人は『法華證明鈔』に見えるように祈願をされ、たちまち平癒されている。即ち「上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生れて悪人とは申すべけれども、心は善人なり。其の故は日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば、或は所領或は田畠等にわずらひをなし、結句は命に及ぶ人々もあり。信じがたきにちち故上野殿は信じまいらせ候ぬ。また此者嫡子となりて、人もすゝめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるひはいさめ、或はをどし候つるに、ついに捨つる心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へ」(定一九一一-二頁)と記されている通り、父子共に熱烈なる信仰者であったことがわかる。
五男の七郎五郎は弘安三年に一六歳で夭折した。
『上野殿後尼御前御書』によれば「みめかたちも人にすぐれ、心もかいがいしく見へしかば、よその人々もすずしくこそみ候」(定一七九三頁)とあり、追申には「あはれ肝ある者哉、男也男也」(定一七九三頁)とあって、容姿にも秀れ、立派な男子として成長していたことがわかる。
聖人は母である後家尼にしばしば書を送って、悲嘆の母を慰め力づけ、その追善を祈っている。
また聖人は弟子の日興をさし向けて南条家の信仰上における指導や相談に当たらせていた。
聖人の滅後も時光は日興を迎えて富士の大石ケ原の地に大石寺を建て、重須の本門寺建立の大施主ともなっている。
富士方面における聖人門下の代表的人物となった。
次に『日蓮団全史』によれば、南条七郎の入信は聖人が鎌倉へ出て松葉谷に草庵を結ばれた初期の頃であり、工藤吉隆大学三郎四条金吾らと同じくして入信したことがわかる。
聖人が最初に南条七郎へ出された書簡は、文永元年(一二六四)一二月一三日付の『南条兵衛七郎殿御書』である。
それによると「御所労の由、承り候はまことにてや候らん」(定三一九頁)と冒頭にあり、すでに病床にあったことがわかる。
この一書が七郎宛の最初で又最後のものとなった。
翌文永二年七月の『上野殿後尼御返』では「上野殿死去」のことについて記されているのである。従って七郎はこの年に没していることがわかる。
尼に対し夫の七郎こそまことの夫であり、とおがみ給うべき人であると説いている。
そのわけは、あなたに法華経をすすめ、行者とならせ給うたからであり「いきてをはしきは生の、今は死の生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり」(定三二八-九頁)と述べている。
《影山堯雄『日蓮団史概説』、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、『日蓮聖人御遺文講義』、上田本昌「身延山における日蓮聖人」『棲神』四七号-五一号、『遺文辞典』歴史篇「南条兵衛七郎(なんじょうひょうえのしちろう)」の項、『昭和新修』別巻「南条兵衛七郎」の項、『日興門流上代事典』「南条兵衛七郎」の項

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