熱原法難
熱原法難
あつわらほうなん
「あつはらほうなん」とも。
弘安二年(一二七九)九月、駿河富士郡熱原(静岡県富士市厚原)の門弟に加えられた弾圧。
日蓮聖人の身延入山以降、駿河方面では弟子日興が南条時光の血縁関係を基に活発な弘通を展開し、聖人の教説を弘めていた。
日興は蒲原四十九院の供僧で、少年の頃から同院に居住していたが、その四十九院を始め、同地の実相寺、瀧泉寺等の住僧が次々と日興の弟子となっていった。
四十九院では同院の供僧日持・賢秀・承賢が、実相寺では住僧の肥後公・筑前房・豊前房・日仲らが、そして熱原瀧泉寺では日秀・日弁・日禅・頼円らが日興の弟子となり、かかる天台宗寺院内部に日蓮聖人の教義を中核とする集団が形成された。
更に彼らは、在地の百姓農民に聖人の教説を弘めて檀越を獲得し、ここに駿河の門弟が形成されると共に、実相寺、四十九院ではこれら日興の弟子と寺院上層部との間に対立抗争が生じた。
実相寺では建治四年(一二七八)住僧尾張阿闍梨と日興の弟子肥後公・豊前房らと論争が起こり、尾張阿闍梨は豊前房らの諸宗批判を非難した。
これを聞いた聖人は弘安元年一月、身延から諸宗批判の論拠を示して豊前房らを支援している。
同じ年、四十九院でも日興・日持・賢秀・承賢らに対し、同寺寺務厳誉は、彼らの住坊・田畑を奪い取り、寺院から追放した。
同年三月、日興らは厳誉の処置の不当を主張し、対決した。
一方、熱原法難の舞台となる熱原瀧泉寺でも、浄土教者である同寺院主代平左近入道行智が、建治二年頃、日興の弟子となった住僧日弁・日秀・三河房頼円・日禅らに対して、法華信仰を停止させて念仏信仰を強要し、それを行う起請文と交換に、所職・住坊らの安堵を約束した。
頼円は行智の強要に屈し、日禅は富士郡河合(富士宮市長貫)に去ったが、日秀・日弁はなお瀧泉寺に踏み留まった。
しかし、こうした行智と日秀らの寺内の対立はそれだけにとどまらず、やがて寺外へ拡大する。
行智は寺外にあって日秀・日弁らの教導した百姓農民に対し、在地有力者として非法を行うなど、建治年間から繰返してきた小競り合いが、ここに院主代・在地有力者行智と日秀・日弁を代弁者とする熱原の門弟との対立として拡大激化した。
そして、遂に弘安二年九月二一日、行智は苅田狼藉を契機に同地の百姓熱原神四郎ら二〇名を捕えて鎌倉に送り、彼らの専持法華者たることと苅田狼藉を訴えた。
聖人はこの事件が起こるや、現地に弟子を派遣して指示を与えると共に、陳状を記してこの処置の不当を述べ、彼らの釈放を要求した。
そして、この弾圧が駿河一地域ではなく全門弟に及ぶものと訴えた。
しかし、この事件の審理に当たったのは侍所所司平頼綱で、その処罰は拘引された農民のうち、神四郎ら三名を斬首、他は禁獄という苛酷なものであった。
頼綱の念仏強要に神四郎らは題目を唱えて死んでいったという。
かかる苛酷な処罰がなされたのは、この事件が得宗権力の基盤たる得宗領で起こったことと、更に得宗領の在地統制の強化の中で、政治権力の優位を認めず、仏法優先の立場を主張する聖人の弟子であったところに、得宗被官侍所所司平頼綱の、苛酷なまでの厳しい処罰がなされたとされている。
かくて熱原法難は百姓農民の斬首(一〇月一五日)と農民信徒一七名の禁獄がなされた。
その後、鎌倉における裁判闘争を経て、同年一一月六日の『上野殿御返事』が示すように、一一月六日以前に信徒らは釈放されて帰国。
国権弾圧事件は余波なおくすぶるも一応の解決をみた。
《高木豊『日蓮とその門弟』、『遺文辞典』歴史篇「熱原(あつわら)」の項、『岩波仏教辞典』「熱原の法難」の項、『日蓮聖人大事典』(国書刊行会)「日蓮聖人の生涯」「日蓮聖人と法難」の項、『日蓮聖人事蹟事典』(雄山閣)「静岡」の項、『日蓮辞典』『日興門流上代事典』『国史大辞典』一巻「熱原法難」の項》