妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日興門流

にっこうもんりゅう #2925

日興門流

にっこうもんりゅう

富士門流ともいう。
日興(一二四六-一三三三)を派祖として興された団で、日興の名前からその門流日興門流、および富士山麓の大石寺等を本拠点とすることからその地名から最初は富士方、富士門跡といい、後に富士門流などと呼称されている。
聖人の高足の六老僧の一人に数えられる日興は日蓮聖人滅後、身延山輪番制を機軸に、聖人門下の和融を意図するが、日向との対立、更に身延の外護者である波木井実長との対立をきっかけに正応元年(一二八八)一二月に身延を離山し駿河上野の地頭南条時光の外護をうけ下条村下之を開いたと伝え、正応三年一〇月には大石ケ原に大石寺を創建した。
数年後には北山の地頭石河能忠の外護のもとに重須に本門寺のちの北山本門寺を創建した。
永仁六年(一二九八)とされる。
またここに談所を開き門下の育成を計っている。
この分派活動は、日向や波木井氏との対立だけにとどまらず日朗らを含めた五老僧との対立を決定的にした。
日興は重須本門寺を中心に布教活動に専念し、甲斐、駿河、相模、式蔵、伊豆にわたって教線を伸張しながら本六人(日目、日華、日秀、日禅、日仙、日乗)と称される弟子を育成し、日興没年の折には新六人(日代、日澄、日道、日妙、日豪、日助)と称せられる学匠が出ている。
その外に久成房日尊、日順らがいる。
日興門流は本六人、新六人を中心に展開することとなる。
大石寺は日目が継承しており、日目は父の本貫奥州登米郡(現・登米市)に弘しており、日華は外護者の秋山泰忠の任官に従って四の土佐田、讃岐田村の地に弘し、後に富士へ帰り妙蓮寺を創立した。
日尊はいち早く京都に上リ上行院(後の要法寺)を開き、出雲、安芸にまで弘している。
また日目の弟子日郷は房総を中心に布教に専心した。
だが日興没後に続き九ヵ月後に日目も没すると、日興門下の対立が表面化する。
まず大石寺の後継をめぐって日目の弟子日道と日郷とが対立して争った。大石寺後継は外護者の南条一門の後押しもあり日道が継承しているものの、日郷は大石寺東御堂の蓮蔵を確守し対立を続けた。しかし応永二二年(一四一五)には小泉の地に蓮蔵の名跡を移し分立している。今日の久遠寺である。
また日郷は房州保田妙本寺を開基して、小泉と保田は両寺一山制をとっている。
更に元徳元年(一三二九)のころ九州の日向に下り財光寺修験僧の薩摩法印と問答してこれを折伏したと伝え、下向の伝は明確ではないが、ともかく薩摩法は正慶二年(一三三三)に富士に来て日睿と改め、再び日向に帰って弘に専念している。
その中心は財光寺を改めた定寺である。
日興門下の対立は建武元年(一三三四)正月七日に大石寺上蓮において、本六人の日仙と重須を継いだ新六人日代との間に方便品読不読論の論争が行われた。
この論争は両者の争いにとどまらず、日妙、日華、日、日助、日睿、日満を含む形で対立が進み、遂に日代は日妙と重須の後継問題を起し重須を去ることとなる。
その争いは日代は日興に重須を譲られ、外護者の石河能忠の信任を得ていたが、能忠の子実忠と対立するにおよび重須の境内敷地の土地寄進を康永三年(一三四四)に否定された。
これをきっかけに日代は日満とともに重須を去り、西山の大内氏をたよって本門寺の名跡を興した。
今日の西山本門寺である。
日満は佐渡を中心に布教を行っており、一谷の妙照寺を開基している。
このように日興門流の日興、日目没後における門下の対立は、結局分立となって現れているものの、結果的にはそれぞれ独自の教線を延し日興門流の伸張につながっている。
しかし日興門流内では和解による門流の和融統合と発展の期待は早くからあったことは当然であるが、和解の動きはやっと享禄年(一五二八-三一)に具体化する。
小泉久遠寺の日是は西山本門寺日心に重須と和談すべきことの斡旋を申し出ているが、日心に拒否されている。
とはいえ日心の跡を継いだ京都要法寺出身の日辰は西山と重須和融に尽力し、更に大石寺との和融も計り、富士門流の和融盟約による発展を意図したが同意を得ることができなかった。
和融不同意の条件は分離した張本人の一人である日代を重須の歴代に数え入れるか、数え入れないかという点にあった。
この点に関して京都にあって日尊の法系につながり要法寺日辰と同門ながら競合関係にあった正行院の日春は、日辰への対抗意識のもとに日代の歴代加入の条件を不問にして永禄五年(一五六二)に西山と重須との和融に成功している。
この和融は日蓮宗門流に好評を博したことが明らかである。
だが小泉久遠寺日是は日代の重須歴代加入に関して不満で絶対反対であったために、重須とはもとより日春の斡旋をのんだ西山とも対立することとなった。
また要法寺と正行院との対立が激化するのは当然である。
更にこの不和と反目は新たな展開をみる。
ち重須と西山の和融後まもなく正行院より西山に晋山した日春が重須との和融の斡旋者にもかかわらず西山の重須に対する遺恨を取上げ、重須にその返答を求めたことである。
西山の重須への遺恨とは、西山の分離の時点にあり、それは日代の反対者は日興譲状を無視し日代を擯出し、更に日代が引継ぐべき宗門の重宝をも横領してしまっているので、重宝だけは日興の正嫡日代に、日代の法系の正嫡なる西山に返還してほしいとの要求である。
結局この遺恨を取上げることは表面的に和解した西山と重須との対立を再び激化させることとなる。
重宝返還の争いは団内部の問題にとどまらず政治権力の介入をみる。
正九年(一五八一)三月には西山は武田勝頼に訴訟したところ、武田氏奉行の増山権右衛門尉の担当のもとに争いのもとである重須所蔵の日興譲状外の重宝を没収してしまった。
重須では返還を求めたものの許可は得られなかった。
だがまもなく武田氏と織田・徳川両氏との激突のなかに、重須では徳川康に武田氏没収の重宝の取返しを願い出て、武田氏滅亡と共に重宝は重須に返還された。
重宝をめぐる紛争は一応これで和解するものの両寺の反目はなおも潜在化して続くこととなる。
ともかく両寺の和融は富士門流内部の和融の気運をより一層促進することになり、大石寺と要法寺とは天正一五年ごろ和解し、以来大石寺貫首は要法寺より晋山し江戸中期の二三世日敬まで続くこととなる。
だがここで留意すべきことは、大石寺と要法寺、西山と重須との和融はあくまでも単一セクトの和融であり、富士門流全セクトの和融としては成立しなかったことである。
このことは近世の政治権力の台頭と確立の動きのなかで考えれば、いわゆる富士門流全セクトを和融統合して、本寺、末寺の上下関係に基づく強力な教団制が整備されないことを意味している。
かつ、富士門流とは絶対的な本寺権を有する総本山を頂点とする上下関係の秩序だった全国的な広がりをもつ教団ではなく、日興および本六人・新六人を開祖とする各寺院の総体的な呼称であり、富士五山および要法寺にしても上下秩序の関係もなく各セクト的立場での展開をもち若干の末寺しか有してはいなく横の結びつきも弱い弱小団であることを明示している。
現にこのことは江戸代に至って、幕府から富士門流としての単独の教団は認められてはおらず、日蓮宗の勝劣派に属する反主流の小数派として把握されていることからも明らかである。
江戸代における富士門流は、越後三条の本成寺、駿州岡之宮の光長寺、上総鷲巣の鷲山寺、京都の本隆寺、本禅寺、妙蓮寺、本能寺、摂州尼崎の本興寺などの八品派、陣門流、真門流とともに勝劣派を形成していた。即ち勝劣派とは富士門流や真門流、陣門流、八品派と呼称される前代からの弱小団の分派連合体的団であった。
この各派のまとめ役的存在として江戸に本妙寺、長応寺の触頭が置かれていたが十分に機能したとはいい難く、勝劣派教団としての統一的統制はあまり認められない。むしろその運営は各派内の独自にまかされていたようである。
富士門流内でも前述のように富士系本山の全体的な和融には至らず対立が持続し、江戸中期には大石寺でも和融した要法寺との間に再び義上のことで反目するようになっている。
一方では内訌を続ける富士門流も、教義的には一致派とされる身延流とは派祖日興の身延離山以来の伝統的対立意識から激しい対決の姿勢を示したようである。
一致勝劣という義上の対決姿勢を強調しすぎたために、公権力には新義、異義の禁に抵触するものとしてうつった。
そのために仙台や尾張や金沢地方では禁制不受不施一派として誤解を招き、禁圧されている。
また団の線は駿州を中心にした東海地方を基盤に関東、東北、四、九州の各地方に展開し江戸末期まで凡そ一三〇ヵ寺余りを数えることができる。
明治代に至っては、明治九年(一八七六)二月に大石寺を中心に富士七山は興門派と呼称し勝劣派から正規に分離し、同三二年には本門宗と改正し、同三三年九月に日蓮宗富士派と称し同四五年に日蓮正宗と改正した。
昭和二一年(一九四六)四月には法人登記をなしている。
また特筆すべきは戦後まもなく富士門流の講中組織の一つであった創価学会が新興の信仰集団として目覚ましい発展を遂げるにつれ、両者一体の関係と共に日蓮正宗自体も凡そ二七〇余ヵ寺を数える団に成長して現在に至っている。
《『日蓮辞典』「富士門流」の項、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同『禁制不受不施派の研究』、東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』、「富士日興上人詳伝」『大白蓮華』一一号、堀日亨『日興上人身延離山史』、『身延山史』、高木宏夫『日本の新興宗教』、村上重良『現代宗教と政治』、笠原一男編『日本宗教史研究入門―戦後の成果と課題』、小松邦彰・花野充道『日蓮団の成立と展開』(春秋社『シリーズ日蓮』三)》
(坂本勝成)

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