本六人
本六人
ほんろくにん
本六人とは六老僧白蓮阿闍梨日興(一二四六-一三三三)の本弟子六人のことで、日蓮聖人が池上で遷化の前に定められた本弟子(六老僧)を手本にして、自門の教傑を選定したものである。
この本六人に対して、日興が晩年に一乗の大機を撰量して添加した若徒の弟子を新六人という。
日興は日蓮聖人在世中に数多くの門下及び檀越を訓育し、手引きしている。
そして身延山に日蓮聖人が住していた時が最も直参する弟子檀那が多く、そのポストの重要性が日毎に増したのであるが、日蓮聖人滅後、他方面の弟子檀那と、南部実長との間に不和が生じ、日興は初発心の師として初めは実長を弁護したようであるが、次第に対立の溝を深めるに至り聖人七回忌後に身延を離山することとなった。
『原殿御返事』には対立の原因として実長・民部日向の謗法問題たる、一体仏の件、神社社参の件、謗施の件を挙げている。
身延を下った日興は母の実家由比家に至り、ほどなく上野南条氏の所領に至っている。
身延を日興が離山すると共に日興に従属した弟子も数多くあり、その前後に離反した門下もあった。
離反した者のうちには、六老日持、和泉日法、越後房日弁らがあり、これらはほとんど日持・日弁の縁故系脈である。
正応三年(一二九〇)一〇月、上野大石ケ原に持仏堂を結び(のちの大石寺)、そこに数ヵ年住したが重須の地頭、石川孫三郎源能忠の請いによって重須の地に移り、永仁六年(一二九八)二月一五日、石川・南条氏らの外護により、日蓮聖人御影堂・天照太神宮・法華本門寺根源の三堂を建立し、同年二月『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録ノ事』を書き留めている。
その中に離反した諸師や、同行した弟子が明確に挙げられている。
寂日房日華・蓮蔵房日目・下野房日秀・少輔房日禅・摂津房日仙・了性房日乗を「此の六人は日興第一の弟子也」と六人の本弟子として記しているが、日乗を除いては他の五僧は日蓮聖人に常随給仕した人である。
日興はこの年よりその後、正慶二年/元弘二年(一三三三)まで四〇年存命し、その間に日乗は文保二年(一三一八)、日秀・日禅も日興示寂数年前に遷化し、日目は七四歳、寂旦房日華は八七歳という高齢であった。
本六人のうち日目・日乗・日仙は南条・新田系、日華は甲州系、日秀・日禅は由比河合系の一族出身または縁故者で、大石寺第三世、蓮蔵日目の門下には、日尊、日郷・日道らの傑出した僧が輩出している。
《『日興門流上代事典』「本六人(日興弟子)」の項》