持仏堂
持仏堂
じぶつどう
本尊として信仰する仏像を安置しておく堂。
日蓮聖人が後年、建長五年(一二五三)四月の立教開宗を回想する遺文『清澄寺大衆中』に「安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして」(定一一三四頁)、また『聖人御難事』に「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして」(定一六七二頁)と「持仏堂」の南面にして法華信仰を説き始めたと記す。
但し、後者には「諸仏坊の持仏堂」とあるが、前者は「道善の房持仏堂」とあるのみで、この持仏堂は旧師道善房の持仏堂とも理解できるが、むしろ後者の遺文との関連から諸仏坊の持仏堂とも考えられる。
この「諸仏坊の持仏堂」とは、高木豊によれば「共同の持仏堂で、ここに聖人の持仏である釈尊像が安置してあった」とされる。
つまり聖人は自身の持仏を安置する、その堂の南面で開宗の第一声をあげたのである。
更に同氏は地頭東条景信が非法をおこなった時、聖人は「せいじゃうの起請をかいて、日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて、一年が内に両寺は東条が手をはなれ候しなり」(定一一三五頁)の本尊とは、この持仏ではなかったか、とする。
聖人の弟子、檀越のなかにも、こうした持仏堂をもつものがいた。
持仏堂は法華信仰生活を営む小規模なものであったが、聖人の檀越富木常忍の持仏堂が、若宮法華堂として、のち法華寺に発展していったように、平賀本土寺、比企谷妙本寺、藻原妙光寺なども、聖人在世の頃はいわゆる法華堂で、持仏堂が法華堂として、のち寺院に発展していったものである。
そして聖人滅後、それぞれの名称が付せられ、その地における日蓮教団弘通の拠点となった。
《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、高木豊『日蓮とその門弟』、『遺文辞典』歴史篇「持仏堂」「諸仏坊」の項》