平賀本
平賀本
ひらがぼん
千葉県松戸市平賀本土寺所蔵の録内遺文の写本の呼称。
同目録によれば一二五篇であるが、同本収録は一二六篇。
これは同目録が「報恩抄送状」を記していないことからくる違いである。
収録一二六篇のうち、録外遺文五篇・重複(イヤ書)四篇、現行遺文に比定できないもの三篇、遺文にあらざるもの五篇であるので、平賀本録内は一〇九篇を収録していることになる。
同本は同目録の付言によれば、天保三年(一八三二)に修覆された。
このとき既に全三三巻のうち二巻が散逸していたので、残る三一巻を修覆したのが現存本である。
各巻の収録遺文が書写造本されたままであるかどうかは不明であるが、おおよそそれを踏襲されたようである。
ただし現存本の巻立と書写の時期の前後とが必ずしも同じではない。
同本は大永七-八年(一五二七-二八)に本土寺一一世日遊(一四八九-一五四七)の発願により、勝妙坊日信が一筆書写したものであるが、書写の時期を明記しているなかで、最初のものは同七年正月廿一日の識語のある『諫暁八幡抄』・同五月六日付識語をもつ『持法華問答抄』および識語のない『祈祷抄』を収める巻二八である。
『諫暁八幡抄』の識語に、日遊は明らかにこれを「最初筆立(ふでたて)本也」といっているから、同抄によって平賀本録内の書写が始まったのである。
これを最初として以後書写が行われ、それらのなかには、七年五月一日(巻一八)・五月一二日(巻二六・三〇)・五月一三日(巻二〇)・五月二〇日(巻一五)・同八年三月二一日(巻九)・三月二八日(巻一六・二七)・四月三日(巻八・二一・三一)・七月二日(巻一・二九)・七月四日(巻二・六・一七・二二)付の日遊の識語がある。
日遊の識語のあるのは右の一八冊だが、日遊の識語のないのは、巻三・四・五・七・一〇・一一・一二・一三・一四・一九・二三・二四・二五の一三冊である。
修覆された現存本の順序と書写の順序とは一致しない。
恐らく修覆の折、当時すでに固定していた刊本録内遺文の配列順に随って『立正安国論』、『開目抄』上下、『報恩抄』上下、同「送状」、『観心本尊抄』、『守護国家論』の順に揃えたのであろう。
しかし以下の配列は刊本のそれとは異なっている。
日遊の識語に見える時期は前掲のように、大永七年五月・同八年三月・四月・七月の四期に分れている。
一方、平賀本は日信一筆による写本である。
従って日信の写功の畢るのを俟って、日遊が識語を記したと考えるべきである。
そうでなければ、例えば、大永八年七月四日に日遊が識語を記したのは、巻二『開目抄』上巻・巻六『報恩抄』上巻および巻一七(四篇)・二二(八篇)であって、前二抄は恐らくそれぞれの下巻も完成していたと見るべきであろう。
そうとすれば日信一筆をもって、同時期にこれらが一緒に写功を畢えたとは考えられない。
識語記入の時期が特定の時期に集中しているのは、ある程度の写功の畢えるのを俟って、識語を記したからにほかならない。
平賀本の底本の多くは、本土寺九世日意(一四二一-七三)の写本と小西正法寺所蔵の写本であろう。
正法寺は日意開基の寺であるから、同寺の写本も日意の写本と見てよいであろう。
日意の写本を底本としたことは、筆立本である『諫暁八幡抄』に日意自筆本をもって書写したとあり、かつ「日意私云(略)」との注記を写していること、巻一五収録の『梵音声抄』末尾に「右此御抄者、古来日意聖人一筆御書雖有之、宝蔵奉収置云々」とあることなどによっても知られる。
更に前掲書写の順序と日意の識語記入遺文とを対照すると、巻一八(三篇)・二六(一篇)・三〇(三篇)・二〇(一篇)・一五(三篇)・二七(一篇)・二一(一篇)となって、早い時期の書写のものに日意の識語が記されたものが多いのであって、このことからも日意の写本が底本であったことがわかろう。
加えて平賀本には誰人であるか不明だが「私云」「本云」「有人云」等の注記およびそれすらもない、いわば、無署名の注記がある。
これらのなかには後述の日隆・日悟の校合によるものもあろうが、日意の注記の仕方からいって、そのほとんどが日意のそれと見られるのである。
その一つに巻二九収録の『妙法曼荼羅供養御書』に「自弘安五年至嘉吉三年百六十七年相当候也」との注記がある。
これを日意の注記とすれば、日意は応永二八年(一四二一)に生れ、文明五年(一四七三)に没しているから、日意は既に二〇代のころから、遺文の蒐集書写を行っていたことになるのである。
日意の注記のほかには『報恩抄』上巻と『守護国家論』にしか見えないが、本土寺一三世日隆が永禄二年(一五五九)「一覧」(一校カ)したことが記され、正法寺七世日悟が天正一〇年(一五八二)校合したことが、巻九・一一・一二・一五・二二収録のそれぞれ一篇に記されている。
そのうち巻一一収録『三世諸仏惣勘文教相廃立』には「岩部本」をもって校合したとある。
岩部とは千葉県香取市栗源(くりもと)町岩部安興寺を指すと思われる。
同寺は本土寺三世日伝開創と伝えるから、ここに遺文写本が存在した可能性は十分あり得るといえよう。
更に日悟は巻一五収録の『末代法花行者位并用心事』を天文一五年(一五四六)中山日俒(にちごん)が真蹟と校合した写本を用いて校合しており平賀と中山の交流を示している。
その他、日悟の筆と思われる異本との校合の結果が間々記されている。
なお異本との校合は、底本においても行われていることは、そのことの注記が本文と一筆であることから知ることができよう。
平賀本は現存する初期録内の写本として、ややおくれて集成されたと考えられる身延本録内(日朝本)と肩を並べるが、嘉吉三年(一四四三)のころから蒐集されていったとすれば、その集成が後者に先立っていること、遺文の配列順序が諸本と異なっていること、諸本に比べて仮名書き、仮名表記を残していると見られることなどから、諸本のなかでもとりわけ重視すべきである。
なお『顕仏未来記』は他本いずれも漢文体であるに対して、平賀本のみはほぼ訓読文に近い形であること、『撰時抄』の和文の一部を漢文体に書き改めていることは、注目される点である。
《高木豊「諸本解説」『日蓮』(日本思想大系一四)、同「遺文の写本について」『大崎学報』一二五・六合併号、『遺文辞典』歴史篇「平賀本」「平賀本御書目録」の項》
(高木豊)
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