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録内御書

ろくないごしょ #5048

録内御書

ろくないごしょ

日蓮聖人遺文を集成したものの名称。
弘安六年(一二八三)一〇月一二日、聖人一周忌における結集と伝えるが、その実を検証する史料はなく、後年の集成である。
この第一次的集成に収録された遺文以外の集成が更に行われ、それを録外と称し、第一次的集成を録内と称するようになった。 録内集成の期の確定は未だしである。 しかし、寛正二年(一四六一)述作の中山門流本成房日実の『当家宗旨名目』に「御書目録一冊これあり。その目録とは、弘安六年癸未十月十二日記し置き給う御書一百四十八通なり。此の記に云く、六老僧末代のために註記し仰せ給う。さて、録外の御書は数を知らず。もし数を知らば、録内同前なるべしと云云」とあることから、これ以前の集成と考えられる。
次いで身延久遠寺行学院日朝(一四二二-一五〇〇)執筆の目録には「御書目録日記之事 六老僧所記」とあり、その最末に六老僧連署のいわゆる「御書目録日記」を収めている。 日朝の目録には六老僧置文のタイトルはないが、本満寺本録内目録にはこれがある。
更に宮崎英修によって紹介された小湊誕生寺蔵「小湊本目録」がある(遺文の写本はなく、目録のみ現存)。 これは備後公日祐(伝未詳)が、永正九年(一五一二)三月二八日記したもので、その「祖書目次」は日朝の録内目録や平賀本録内の配列とも異っている。
平賀本録内は本土寺日意がその原型をつくったものを大永七-八年(一五二七-二八)同寺日遊が集大成したと考えられる。 平賀本録内の二九巻に収める「妙法曼荼羅供養御書」(巻一八にも収めていて弥書=いやがき、重複だが)の書末に「自弘安五年(一二八二)至嘉吉三年(一四四三)百六十七年相当候也」の書き入れがある。 これによれば平賀本録内はこのころから集成されていたとも考えられる。
こうした録内御書集成が六老僧の名をもって伝えられ「御書目録日記之事」にあるように、ここに収録された一四八通の「この外は、たとえ実の御書と雖も、左右なく目録に入れるべからず」とされたのは、例えば、室町時代初頭の成立とされる日興仮託の「遺誡置文」に「御抄何モ偽書ニ擬シ、当門徒ヲ毀謗セン者コレ有ルベシ」、「偽書ヲ作ッテ御書ト号シ、本迹一致ノ修行ヲ致ス」とあるように、偽書の作製による自脈の権威づけを行う風潮を抑えるためであって、御書を一四八通と定め偽書の続出を防ごうとしたのであった。 従って目録の成立の期もこの風潮の高まったころになる。
成立の期について浅井要麟は祖滅一〇〇年前後(一三八二年前後)、山川智応は祖滅一二〇―三〇年頃(一四〇二-一二頃)といい、両者いづれも中山門流系の学匠による作製としている。 これに対して宮崎英修は、その成立を明徳元年(一三九〇=身延中山の交誼破綻の年)以降、『宗旨名目』述作の寛正二年(一四六一)にいたる間とすべきであるとし、かつその作製は、身延門流の学匠により、それを日朝が用いたので、これが広く用いられたとしている。 しかし本満寺本録内目録は、近世の刊本のそれとほとんど同じ配列を示していて、かつ同目録末尾に「于延徳二大歳庚戍五月一日書之訖。 日恵三十二歳。 右ハ妙蓮寺什書、録内都合三十九巻壱巻欠ケタリ。 惜哉。 紙ハキトリノコ(黄鳥子)クルマトヂノ本也。 日諒記ス」との押紙(おしがみ)がある。 これを記した日諒は本満寺五七世(一九二二年没)だが、その注記は旧妙蓮寺本録内御書を見てのことであろう。 装訂が車綴=車双紙=くるみ表紙=包背装(字面を外面にして紙を重ね、紙の断面の方の余白部分を、かんぜよりなどで二カ所とじ、その上から、本文用紙の一枚強の大きさの厚手の紙をはって、本文の折り目とは反対の方から表紙でくるんで、紙の断面と表紙の裏の部分とをのりづけにしたもの―長沢規矩也『図書学辞典』)であるとの注記も見なければいえないことであろう。 従ってこの注記に拠れば、日恵(伝未詳)が延徳二年(一四九〇)にこれを書写、あるいは集成していたことになり、この年は日朝没年(明応九年=一五〇〇)に先立つこと十一年である。
更にこれより一年前の長享二年(一四八八)京京都本隆寺二世智願院日鎭(一四五四-一五三三)は録内御書を書写している。 のみならず林日邵氏所蔵「御書目録日記之事」―事書の下に「合六老僧所被記也」の注記がある―は文亀元年(一五〇一)一二月七日玄宗坊日憲の書写したものであるが、その本奥書(ほんおくがき)も記していて、それには「本云―永享四年二月 日 妙覚寺権律師日源」「寛正四年三月 日 弘経寺日健」とある。 既に永享当、京都に集成された録内御書と目録のあったことを知るのである。
ついでにいえば、日健の『御書鈔』における遺文のテキストは、林氏所蔵本の底本であったことも、これによって知られよう。 日源の奥書によって、京都妙覚寺に録内御書のあったことを知るのであるが、伝来の系譜は分らない。 妙覚寺が妙顕寺から分立したことからいえば、その底本が妙顕寺にあったろうと考えられ、そのことは更に関東比企谷門流における録内御書の集成を思わせるのである。 そして比企谷門流平賀本土寺における録内の集成も合せ考えねばならないであろう。 後述のように録内遺文は、関東本と関西本に二大別できると考えられるが、この林氏所蔵本はまさに関東本に属す写本である。
このように関東における平賀本や身延本の集成書写とほとんど同じころ、関西においても妙覚寺本(林氏所蔵本の底本)や日鎮の本隆寺本、日恵の妙蓮寺本(現本満寺本)録内御書が集成または書写されていたことになるのである。 門流としてこれを見れば大きくは、身延門流比企谷門流においてこれが行われたことになり、後者は更に、平賀門流と京都四条門流に分かれ、四条門流から分出した妙覚寺・妙蓮寺・本隆寺に録内御書の写本の存在が指摘されるのである。 こうした点に基づけば、録内の集成と目録作製を身延に一元化し、かつそれがその後の源流となったとすることには、なお問題が残ると思うのである。

録内御書伝存の形態は写本と刊本である。 現在、立正大学日蓮教学研究所の調査によって、その存在が確認されたものをあげれば次の通りである。 ただし中には欠失した巻もあって、完全な形で伝来されていないものもある。 これらのなかには書写の年次を示したものもあれば、書写の年次は不明だが書写者または所持者や蒐集者が明らかである場合には、その歿年次によって期を示し、遺文全体の書写年次ではなく、そこに収める遺文にその書写年次を記してあるものは、それを採りあげた。 このように次の諸本に注記した年次は、同一の観点からの年次の指摘ではない。 しかし当然のことながら諸本のいずれも書写の底本をもっているのであるから、ここに注記した年次よりもなお期的に溯って、その底本=真蹟本または写本の存在を考えさせることにおいて諸本は共通である。
(1)日意平賀本(嘉吉三年=一四四二、前述)、
(2)日朝身延本(文明十一年=一四七九、諫暁抄書写)、
(3)日鎮本隆寺本(長享二年=一四八八、撰抄書写)、
(4)京都妙伝寺本(明応四年=一四九五、報恩霊山日胤書写)、
(5)林日邵氏所蔵本(文亀元年=一五〇一、『御書目録日記之』書写)、
(6)妙蓮寺旧蔵本(文一二年=一五四三、日玖寄進。平楽寺書店現蔵)、
(7)立正大学日蓮教学研究所所蔵本(正二〇年=一五九二、書写)、
(8)京都本満寺本(文禄二年=一五九三以前)、
(9)日奥書き入れ妙覚寺本(慶長五年=一六〇〇、日奥対馬配流以後、同本に書き入れ)、
(10)日通本法寺本(慶長一三年=一六〇八、日通没)、
(11)伝日重所持本(元和九年=一六二三、日重没。平楽寺書店現蔵)、
(12)日成所持本(寛永一九年=一六四二、本法寺日養正本と対校。平楽寺書店現蔵)、
(13)休息立正寺本(室町代末書写か)、
これら一三におよぶ録内御書の諸本の類別と系統化とは、いわゆる一四八通それぞれの校合を俟って、初めて行い得ることであって、尨大な間と労力を要する作である。 その作によらねば、諸本の類別と系統化はできないが、若干の作―『法華題目抄』の約三分の一ほどの校合と『開目抄』『撰抄』『報恩抄』三抄の分巻の比較―によって、諸本は関東本―平賀本・身延本・林日邵氏所蔵本・日奥書き入れ妙覚寺本・本法寺本―と関西本―妙伝寺本・本隆寺本・妙蓮寺旧蔵本・本満寺本・伝日重所持本―の二つに分けられ、更に三抄分巻の比較により、関西本に甲本―本満寺・伝日重所持本―と乙本―本隆寺本・妙蓮寺旧蔵本―という二類が存在するのではないかという仮説がたてられる。
あるいはまた「単衣抄」諸本の校合では、(一)本満寺本・伝日重所持本・日成所持本・日蓮教学研究所所蔵本は同系写本、(二)別系統に本隆寺本・妙蓮寺旧蔵本があり、更に別に(三)妙伝寺本・林日邵氏所蔵本・日奥書き入れ妙覚寺本の三本に共通の表記が多く、この他に(四)本満寺本、(五)立正寺本がそれぞれ独自の表記をもち「災難対治鈔」のそれでも、右の(一)(二)(三)(四)が確認され、『撰抄』の校合においても、(一)(二)(三)(四)のことが確認されているのである。
いずれにせよ諸本の類別と系統化とは、尨大な比較対校の結果の上に立たねばならないのである。

遺文刊行については、寂照院日乾と心性院日遠とが企て、慶長十一年(一六〇六)工匠僧日誉・日源・日顗らに『観心本尊抄』の板木彫刻を命じ、刊行したのが、記録に見える始まりである。 以後同一四年の初夏にいたるまで、五大部等を彫刻させたが、同年、日乾・日遠は未刻のものの開板を後世に俟つこととして、実上、刊行を中止した。 しかし、それまで五大部以下数十巻を彫刻したという。 これを慶長本(百部摺本)とよぶが、現存の確認はできない。 のち文化五年(一八〇八)深見要言はこれに基づき開板した。 いわゆる要言本がこれである。
録内御書全体の刊行の初めは、元和年間における古活字使用の本国寺版であるといわれる。 同版は刊行年次をとって元和版ともよばれるが、その年次については、元和元年(一六一五)説、同八年説があるが、定かでない。 なによりも同版の伝存について疑われていたが、近、冠賢一は身延久遠寺身延文庫所蔵の古活字版御書(御書五―撰時抄下、一八―身延山御抄・単衣抄・中興入道消息・月水御書、二三―阿弥陀堂法印祈雨事〈略〉災難対治御書)をもって元和版とすること、寛永一九年(一六四二)刊行の舜統院真超の『破邪顕正記』引用の元和本遺文と身延文庫所蔵古活字本との対比から、後者が元和本の一部であること、更に、この元和本の底本が本満寺本であることを指摘して、元和版の一部が現存することを提唱している。
元和本に次ぐのは、寛永一九年(一六四二)の刊本である。 その刊記に「寛永十九壬午暦五月十三日 洛陽四條寺町大文字町 中嶋四良左衛門致直開板之」とあり、御書の寺内刊行から商出版への転換が行われたことを示している。 冠賢一によれば、この寛永一九年本は大和長谷寺豊山文庫と立正大学図書館に現存するのみであり、後者には刊記はないが、豊山文庫本との比較対照により同版であることが確認されるという。
これより八カ月後に「寛永廿年正月吉祥日 寺町三条上町庄右衛門」の刊記をもつ寛永二〇年本が刊行された。 一九年本・二〇年本の関係については、二〇年本は一九年本を版下とし、二四篇にわたり真蹟本法寺日通模写本と校合、一九年本にない訓点・振仮名を施すなど、一九年本を大幅に改訂して刊行したものであり、これが近世日蓮教学研究の基本的日蓮遺文集となり、普及していった。 翻って一九年本が二〇年本の版下となっていることからすれば、両者刊行のに八カ月しかないところから、一九年本とよばれるそれは、実は一九年以前の刊行としなければならない等のことが、冠賢一によって指摘されている。
次いで「本圀寺年譜」によれば、慶安二年(一六四九)五月、録内御書刊行のあったことを知るが、同版はいまに伝わらない。
更に寛文九年(一六六九)、法華宗門書堂を名乗る武村市兵衛昌常・村上勘兵衛元信.山本平左衛門常知・八尾甚四郎友春らによる寛永二〇年本の重が行われた。 出版は四人の合資によるものであった。 これより先、寛文五年(一六六五)近世初頭以来の受・不受の対立が最終的な決着を見、受派が日蓮団を制圧することとなった。 二〇年関東諸本寺の貫首は連合して「法式」を定め、そのなかに「秘書を借し与え、板行すべからざるの事」を加え、諸本寺貫首による、いわば遺文の管を企てた。 こうした状況のなかでの遺文刊行には、団=宗門の認可を必要としよう。 合資はもとよりだが、法華宗門書堂とは、板行を認可されたことの明示であった。
更に宝暦六年(一七五六)に修補版が刊行された。 寛文九年本の補修で、同本の刊記に添えて小さく「宝暦第六丙子修補之功畢。施主山中利永」の刊記が加えられている。 内容上の修補ではなく、磨滅のはげしいものの修補であった。 なお、この宝暦修補本は、寛永一九年本以来、本文四〇巻、目録一巻であったものを、本文四五巻、目録一巻としている。

いっぽう既に慶長二〇年(一六一五)一如院日重は『見聞愚案記』において、録内御書に聖人滅後の正応五年(一二九二)の年次をもつ「良実状」を収めることその他を論じ、かつ六老僧連署の目録の正本の存在を疑い、次いで中山本行院一四世日奥が「御書新目録」において、更に勇猛院日麑(にちげい)は『祖書編輯考』において、六老僧録内御書編集の伝承を疑ったのであり、近代においても書誌学的見地から否定されている。
浅井要麟「祖書編纂の史的概観」『日蓮聖人教学の研究』、山川智応『本化聖典解題提要』、宮崎英修「日蓮聖人遺文の文献学的研究―録内御書成立に関し」『近代日本の法華仏教』、冠賢一「近世初期日蓮宗出版史の一考察」『大崎学報』一二〇号、同「近世初期における日蓮遺文の刊行」『日蓮聖人研究』、同「日蓮遺文の書誌的考察」『研究年報 日蓮とその教団』第3集(以上三書『近世日蓮宗出版史研究』に再録)、高木豊「諸本解説」『日蓮―日本思想大系一四』、同「遺文の写本について」『大崎学報』一二五・六合併号、同「『開目抄』『撰時抄』『報恩抄』の分巻をめぐって―日蓮遺文の書誌に関する試論の一つ―」『大崎学報』一二八号、同「近世日蓮教団の動向」『近世法華仏教の展開』、『遺文辞典』歴史篇「録内御書」の項》
(高木豊)

【補記】一、二を追記する。「小湊本目録」についての記述には誤りがある。 「宮崎英修によって紹介された」と言うがそうではなく、つとに稲田海素編『日蓮宗年表』(昭和一六年刊)に指摘されている。 また、同目録は目録部分のみで遺文本体不載とするが、これもまたそうではなく、抄録であるが遺文本文も存する(『誕生寺文書』に影印を収録)。写本「録内御書」の諸本一三が指摘されたが、その後さらに数本が確認されている。「現存の確認はできない」と言われた刊本慶長本だが、近時その一書『観心本尊抄』一冊が見出され影印が刊行された(『日蓮教学研究所紀要』三九号)。その他、録内御書集成の期や集成者についての考察深化など、研究の課題が多く存在する。(岡元錬城)

、興風談所の調査により保田妙本寺所蔵の妙本寺本・遠本寺本・大乗寺A本・大乗寺B本が確認され(『図説日蓮聖人の世界』)、さらに堀部正円氏により八王子法恩寺所蔵の日要本の妙義文庫本が招介された(『法忍寺妙義文庫蔵録内御書の写本と古活字版』)。これにより録内写本の数は一九となり、日興門流の動向も明らかとなった。刊本についても冠賢一氏により新資料が見出された(「新発見の本国寺本(元和版)録内御書について」『立正大学大学院紀要』五号)。以上の研究成果の要点は、池田令道「日蓮遺文の編纂と刊行」(『シリーズ日蓮2 日蓮の思想とその展開』)にまとめられているが、池田氏は録内御書の成立について、真蹟遺文をもたない日什門流において、日什(一三一四-九二)の晩年から寂後三〇年頃までかという新説を提示している。さらに堀部正円著『刊本録内御書の書誌学的研究』が刊行され、研究が深められている。(都守基一)

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