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破邪顕正記

はじゃけんしょうき #4257

破邪顕正記

はじゃけんしょうき

真迢(一五九六-一六五九)著。
日蓮宗を脱宗した真迢が寛永一四年に著したもの。
日蓮聖人の説を邪見とし、これを説破して正法を顕揚しようとしたものである。
本書の中で真迢は「近年二至リテ粗諸宗ノ章ヲ見、普ク諸祖ノ意ヲ窺ヒ、機ヲ鑑ミ邪正ヲ勘フルニ、台密禅律念仏倶ニ各ノ其ノ利益アリ。
叡山ノ一是等ノ宗ヲ惣セリ。
日蓮ノ所立ハ曲会私情也ト見付迹ヌ」と述べている。
しかし日蓮宗側の所見(金山抄)によれば、真超は妙蓮寺会衆の信任するところとならず遂に同寺を退かざるを得なくなり、ここに比叡山に入る念を生じたという。
そこで寛永一一年(一六三四)一〇月、横川の戒光院法海を通して叡山改宗を告げたが妙蓮寺の世事繁忙の故に退山せず、翌年四月一六日に到って初めて横川に登ったことを真迢は『禁断日蓮義』に述べている。
真迢の論難の根底は、天台宗宝地房証真の円体同の立場より日蓮宗の約部為正の爾前奪釈を非難していることであるが、その所論は教義的には権実論に止まっている。
この非難は甚しく宗門に衝動を与え、接に宗学的に覚醒する会を与えた。
本書に対しては次々と反駁書が著された。
寂静日賢が『論迷復宗決』一巻、『同別記』、正保四年(一六四七)守玄日領が『日蓮本地義』二巻並びに『法華格言』一巻、慶安三年(一六五〇)長遠日遵が『諫迷論』二〇巻を著してそれぞれ応酬した。
これに対して真迢は承応三年(一六五四)九月、弟子真陽の名をもって『禁断日蓮義』一三巻を著し、その学説に固執すると共に殊に当時の日蓮団の内情を暴露することに努めた。
その後、更に三浦大明寺日航は『摧邪真迢記』五巻を著し、万治三年(一六六〇)観妙日存は『金山抄』一〇巻、延宝四年(一六七六)蓮華日題は『中正論』二〇巻を述作して真迢に反撃を加えた。
《『全』宗論部(破邪顕正記)、望月歓厚『日蓮宗学説史』、執行海秀日蓮宗学史』》

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