権実論
権実論
ごんじつろん
権教(ごんぎよう)と実教(じつきよう)とを弁別する論。
権教と実教との関係については、『摩訶止観』巻三(偏円章)等を始めとして論述されるところであるが、結論的にいって、日蓮教学においては四十余年の爾前(にぜん)の諸経を権教とし、法華経一経のみを実教とするというように仏教全体を通観する体系的認識が、その成立の基盤となっている。
そのことは日蓮聖人の『開目抄』において明らかにせられる五重相対の(1)内外相対(仏道と外道(げどう))(2)大小相対(大乗と小乗)に続いて、(3)権実相対(権教と実教)として論じられるところであり、更に具体的には『一代五時図』が『昭和定本日蓮聖人遺文』第三巻図録篇に数種が集録されており、釈尊一代の説法を五つの時間(五時)に分類して、第五の法華経において真実教を示されたとの説示は『一代五時図』と照応して諸遺文に示されるところである。
権実論は第一にはこのように日蓮聖人によって示されたる権実判の継承の様相として具体的に捉えることができよう。
周知のように室町時代以後、日蓮宗諸門流はこの権実判の上に、五重相対の(4)本迹相対(法華経の本門と迹門との相対)という点に教義理解の中心が移り、それは(5)教観相対(法華経本門における教門と観門との関係)という課題を内包しながら、本迹論として激しく論究され対論されて行く。
しかし、本迹論をめぐって日蓮宗各派が宗祖日蓮聖人の教義をいかに正統的に継承してきたかという論争は、実際には日蓮宗各派の内部的な論争となるものであり、対他宗との仏教理解をめぐっての位置づけは日蓮宗各派の教線の展開と共に権実論として再三論究されることになる。
これが権実論の第二の形態ということになるであろう。
〔権実判の継承〕日蓮聖人滅後、教線を展開して行く眼目として『立正安国論』の趣旨を進献する「申状」の提出が行われたが、その背後にある仏教理解は法華経最第一の闡明にある。
即ち権実判の証明こそが教義上の主要課題である。
そうして後に教線伸張の安定化によって、法華経最第一の実践をどのように意義づけるかが論じられ、本迹論が激しく論じられるようになるが、聖人滅後相当の期間までは教線伸張の基本教義として権実判の確認が中心的課題として確認されていた。
その例を挙げれば、日像『五時図』(『宗全』第一巻)に見られるような日蓮聖人の『一代五時図』の書写確認がまず第一にあるであろう。
次いでこれに基づく諸宗批判を詳細にして行くのが日向『金綱集』(『宗全』第一三、一四巻)であり、日法『聖人之御法門聴聞分集』(『宗全』第一巻)は『一代五時図』に基づく日蓮聖人講述の筆録と見られる。
以下、日進『三国仏法盛衰事』、日祐『当家法門目安』(いずれも『宗全』第一巻)は形式は異なっているが、同様の趣旨に立つものである。
更に日弁『円極実義抄』(『宗全』第一巻)は日蓮聖人の『開目抄』に示された五重相対等を解釈しつつ、権実から本迹を論じようとするものであり、日祐には『宗体決疑抄』(『宗全』第一巻)がある。
これらは法華経が仏教の極理たる円教を明らかにするものであって、しかもその円教の体(円体)は法華経以外の諸経に説かれる円教を超越した円体であることを明らかにしようとするものである。
室町期に入って、一方では『一代五時図』、『金綱集』等の系譜に立つ日朝『四宗要文』等が著され、また日澄『日出台隠記』などが著される。
しかし日陣『本迹同異決』(『宗全』第七巻)、日隆『法華天台両宗勝劣抄』(『四帖抄』ともいう)等が著されて本迹論の論争が巻き起り、それが諸門の分立という教団的な事件と重なることによって、権実論は本迹論によって論究されることになる。
このように室町期までは権実論は主として天台教判の日蓮教義による再編成、再構築ということを中心に行われており、それが本迹論争へと展開して行ったのである。
即ち室町前期には対外的には台当権実、対内的には本迹勝劣が論じられた。
やがて教線の伸張に伴って民衆の間に大きな影響力のあった浄土宗との対論が行われるようになり、台当判から浄当判へと展開される。
天文法乱(てんもんほうらん)を境として、室町後期以降は浄土教学との対論が行われ、これが安土法難(あずちほうなん)等となって現れるのである。
〔江戸時代の権実論〕江戸時代に入ると、室町期までのような言論による論争は困難となり、文書による論争として展開する。
そして権実論は対他宗との論争において発展することになる。
それぞれの教団的立場は異なるが、心性日遠『無得道論』、常楽日経「対浄土廿三条」、仏性日奥『円珠真偽決』『断悪性善論』等は江戸初期の浄土宗批判書である。
さて江戸初期に起った不受不施事件は教団内に大きな波紋を起し、相次いで脱宗する僧が出た。
文禄四年(一五九五)、練意・春門の二人が天台宗に転じ、慧雲・友尊の二人が律宗に転じたほか、円耳が禅(臨済)に、良澄が天台(現在の天台真盛宗)に、了性が律(真言律宗)に転じた。
これらの後を受けて、真迢が天台(真盛宗)に転じ、大いに日蓮教義を批判したので多大の波紋を呼んだ。
これらの脱宗僧はいずれも法華経の円体のみが他経に超絶している(超八醍醐)との教義に反発し、信心為本に立つ法華専修を放棄して併修を行ったのが共通している特色である。
即ち、円耳は教禅一致、良澄・真迢は台浄一致(法華経読誦と念仏の併修)、慧雲らは戒律復興を提唱し行った。
なかでも真迢はその前半生においては飯高・中村の両檀林に学び、『当家略名目』などを著した人物であったから、脱宗後、寛永一三年(一六〇八)に著した『破邪顕正記』は波紋を呼び起し、寂静日賢『諭迷複宗決』、守玄日領『日蓮本地義』、長遠日遵『諫迷論』が反論のため相次いで出版された。
真迢は更に弟子真陽の名によって承応三年(一六五四)『禁断日蓮義』を著し、当時の日蓮教団内部を暴露しようとした。
同書に対する反論として慈光日航『摧邪真陽論』、観妙日存『金山抄』、蓮華日題『中正論』がある。
真迢の主張は法華経の絶対至上主義(超八醍醐の教判)と今昔二円異体による法華独一成仏説に反対し、法華経は顕教中の漸教で円頓の教ではないとし、今円(法華経の円教)と昔円(爾前諸経の円教)と法体は同じであるとして爾前諸経で得脱を得ることを認めようとし、結論的には法華経と諸経の教説とを相対化し、両者の相資並存を主張したのである。
これに対し、日蓮宗からの批判はこうした相資並存の見方を否定し、法華経が信心為本・独一成仏の教説であることを明らかにしようとするものである。
この論争は天台・律・禅の練意・春門・慧雲・友尊・円耳・良澄・了性・真迢対日蓮宗であるが、脱宗者対日蓮宗との論争であり、脱宗者らはいずれも、当然、台学中心とはいえ日蓮教学を学んだ者たちであり、そうした立場からの破日蓮義であった。
それらの立場は既にみた如く円体無殊論によるもので、法華経を捨てるのではなく、法華経を認めると同時に諸経をも認めるというものである。
こうした論争は真迢との論争を最後に、江戸中期になると消えるのであるが、真迢との論争はひいては浄土教者との論争を誘致したのである。
日蓮宗による台浄一致を説く真迢への反駁に伴った念仏破に対して、正保年間、浄土宗徒が『正真集』を出して応酬したのである。
また一音日暁が真宗の夢伝と争い『邪正問答』を著してこれを破し、了誉聖冏の『釈浄土二蔵記』に対して『法華安心録』を著し、弥陀本仏論は根拠がないと破折した。
これに端を発して以後、日蓮宗対念仏宗との論争へ移って行くのである。
この論争は法華教学対浄土教学との論争といえるもので、浄土教学からは五時判に基づく権実判を否定し、法華経を否定せんとしたのである。
浄土宗からは乗誉・松誉・了海、真宗からは性均らが出、日蓮宗からは了義日達・蓮華日題らがこれに対処した。
即ち、蓮華日題『閑邪陳善記』『断邪顕正録』。
了義日達『再難条目』『愍諭繋珠録』『顕揚正理論』『決膜明眼論』等を著して浄土宗らの主張を破折したのである。
浄土宗らの主張は念仏易行法華難行とし、唱題成仏の否定、更に弥陀本仏論・西方浄土論を主張し、末法における真実の救済教は浄土教であると主張した。
これに対して日達は諸宗無得道を明らかにし、『学海余滴』にみられるように爾前法体無間地獄、謗法堕獄論を主張したのである。
この論争に対して了義日達は単に日蓮教学の立場からのみならず、華厳・真言・浄土・天台等を考究した上で権実論を明確にし、対他宗批判を行い、法華教学の宣揚に努めたのである。
江戸時代中・後期になると、真宗の義教・大霊・義導、浄土の大淑・大我・定月らが出て、対浄土教との権実論争は更に激烈を極めることになるが、了義日達没後、日蓮宗の教学は振わず、むしろ防戦の形となった。
いま、これらの論争を時代別にみると、(一)元文・宝暦年間頃、真宗の義教・浄土宗の大淑対日蓮宗、(二)明和・寛政年間頃、浄土宗の大我・定月対日蓮宗、(三)文政・弘化の頃、真宗の大霊・霊城・義導対日蓮宗、以上の三期に分けることができる。
(一)元文三年(一七三八)義教は『浄土真実諭客編』を著して、了義日達の『閑邪陳善記』を批判し、法無権実権実在機説を主張した。
これに対し本有日相は『決権実義』を著したが、義教は『輪駁行蔵録』、『千五百条弾憚改』を著して批判してきた。
本宗からは仁譲日芳『可責謗法鈔』、道樹日幹『続種論』、智観日顕『経王金湯』、弁成日暁『妙義論』を著して反駁に立った。
これと軌を同じくして浄土の大淑は寛延二年(一七四九)『邪啄猱轡録』を著して日蓮宗義の爾前権門説を批判した。
これに対して覚耀日栄『法律阿梨樹』、遠寿日珠『復正挽縄録』、本義日勇『蒲鞭折疑論』、智観日顕『護惜正法抄』によって反駁したが、大淑は宝暦元年(一七五一)『蓮語自面放痾笑』を著して一括応酬してきた。
この論争が終りを告げた頃、(二)宝暦一三年、大我が『紫朱論』を著して本宗批判を始め、これに対して正善日長『正善論』によって反駁したが、更に大我は『獅蟲論』『曇華論』を著して応酬した。
日長は更に『法華訂正記』を著し、伊藤道皓『駁師蟲論』、等樹日選『繋蒙論』によってこれを駁した。
この論争の最中、明和七年(一七七〇)、定月は『獅子弦』を著して日達の『繋珠録』に批判を加えて大我を助けんとしたが、塵外日生『金剛王』、大川日浣『如来師子円弦増補』『円弦国字塔』、智朗日賢『光揚義』等を著して定月を破したのである。
この論争後、しばらく治まっていたが、(三)文政六年(一八二三)西谷檀林の学徒隆禀が真宗の了慶と権実をめぐって論争し、『問答抄』を著して了慶を破した。
これに端を発し、真宗の大霊は『問答抄裂邪網』『仏海舴航』『浄業金櫃』『批紅評黄篇』等を著して応酬してきたが、見龍日富『寸裂邪網』『護法論』『金剛杵』、本妙日臨『仏海微瀾』等によって破した。
また文政九年観阿の『本朝四ケ度宗論記』が再版されると、本宗の小川泰堂『曲林一斧』によって反駁し、また天保一三年(一八四二)真宗大谷派の霊城が『伊呂波邪正弁』を著して、本宗の四箇格言による諸宗批判を批議したが、英園日英『権邪弁正録』、通義日鑑『示正編』を著して反駁した。
更に弘化二年(一八四五)、大谷派の義導『念仏唱題勝劣弁』を著したが、桓叡日智『勝劣弁会通』を著してこれを駁した。
以上三期の論争において、浄土宗からの日蓮宗批判は教判としての権実判よりも宗旨の本義に向けられたものであったが、本宗からの反駁は宗義よりも天台学にその立脚点がおかれていた。
これは権実論争に当った学匠の大部分が天台学中心の檀林出身者であったためであり、この論争が浄土教学と法華教学との論争であったので、権実判として天台学によったためである。
また逆に一面、本迹・権実の教判のみに終始し、教理の内容・実践面等の宗旨の本義など日蓮教学の研鑽について看過されていた面もあったためでもある。
そのためか、こうした対他宗との権実論争の合間、一期から二期にかけての宝暦・明和の頃、本宗内においても権実論争が行われた。
即ち了義日達の爾前権教の法体無間説を継承した中村檀林の智朗日賢・凌霄日鶴らに対して、飯高の心地日塔・道樹日幹・茂蘭日従らは執情無間説を主張したのである。
寛保三年(一七四三)心地日塔は『獄業情法論』を著して了義日達の『繋珠録』による法体無間説を破折し、更に『折解惑』『護惜正法抄』『未顕真実弁』『法華念仏如教抄』『台浄念仏復宗決』等を著して、爾前権教の法体そのものに堕無間獄の義のないことを論じ、日蓮聖人の念仏破は執権謗実の人に対する批判であるとして執情無間説を主張したのである。
これに対して凌霄日鶴は『解惑』を著して了義日達の法体無間、法体謗法論を強調したが、茂蘭日従、道樹日幹らは法体無間論を斥け執情無間論の思想をとり、行においても摂受主義を強調し、諸行を助行の一分と認めたのである。
このように法体・執情の論争をめぐって飯高・中村両檀林の学派的対立を見、飯高が執情無間論の思想に立脚し、摂受主義をとっていたのに対し、中村は日達以来の折伏主義・法体無間論が主流をなし、これが宗学復興の思想的根底となった。
しかし檀林教学全般においては、依然、天台学中心でそれが形式化していった。
権実論は摂受折伏の問題を含むが、日達以来の折伏論はその門下に継承され、旨廣日義・正善日長によって強調されるが、のち桓叡日智・本妙日臨によって摂受論が主張され、幕末の優陀那日輝に至って摂受論は日蓮宗学界の大勢を占めるようになり、折伏論はむしろ在家信者に継承されていった。
殊に優陀那日輝は権実論において権実同体・権実効用を主張した。
即ち教判において爾前諸経と法華とに権実の別を峻別するが、爾前・法華との理体・仏智・体達においては権実の別を認めず、その理体同一と効用価値を認め、了義日達・凌霄日鶴らの爾前法体無間説を破したのである。
これはただ権実、本迹といった教判のみに終始して、仏の仏意に達せず、教理の本質について看過されていた従来の弊を正さんとしたものである。
(渡辺宝陽)