了性
了性
りょうしょう
(一二一三-)
天台宗の学僧、下総真間天台宗談林化主。
武蔵河田谷泉福寺了性房信尊(心尊)、世に河田谷上人という。
武蔵足立郡(現・鴻巣市)の生まれ、太田庄天台宗鷲の宮談林学頭義了房幸範について出家得度したという。
恵心流椙生流の天台学を幸範について学び、比叡山に登って受戒、律師として大いに研鑽して土佐竪者(りっしゃ)の称号を得る。
文暦の頃(一二三四)泉福寺に下って中興の祖となる。
仁治元年(一二四〇)頃までに談所を設けて弟子二四人を数え教学の隆盛を呈した。
再三上洛して大和荘俊範の弟子燈明院承瑜より恵心流相承を受ける。
日蓮聖人が「広学多聞の人」と評すほどの関東天台の一大学匠の地位にあった。
真間の談林にも赴き、弘安元年(一二七八)富木常忍との間に『文句記』の「禀権出界」をめぐっての論争を起す(真間問答、一説に建治三年、文永元年)。
常忍に屈伏せられて真間談所は日蓮宗の所属となる(真間山弘法寺となる)。
この問答を日蓮聖人に報じたその返書が『富木入道殿御返事』(禀権出界抄)である。
弘安八年(一二八五)法門を弟子円頓房尊海に相承して永仁三年(一二九五)までに死去。
真間問答を通して日蓮聖人は了性房に対して蚊虻の者、非天台法華宗と破し、彼をして自らの学説を第三の法門と明言せしめた。
了性房信尊、円頓房尊海によって関東天台学は興隆をきわめた。
《『遺文辞典』歴史篇「了性房(りょうしょうぼう)」の項、『昭和新修』別巻「了性房」の項》
【補記】『定本遺文』は真問問答事件を記す十月一日付『富木入道殿御返事』の系年を弘安元年とするが、熱原法難関係の記述内容から弘安二年と判断できるので、同事件の年次も弘安二年と訂正されるべきである。