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尊海

そんかい #1862

尊海

そんかい

(一二五三-一三三二)
円頓房、円頓法
日本天台宗僧侶。仙波喜多院の中興。
建長五年上総に生れ、武州河田谷泉福寺信尊について出家、弘安八年(一二八五)二月一八日河田谷一九通の相伝を受けた。
その後、日蓮聖人よりやや遅れて叡山に登り、心賀・粟田口静明の門に学んで弘安九年に惠心流七箇の秘法を付法された。
無動寺常楽院において上古よりの不審二六条を決し、その後しばしば叡山に登り、学を修めた。
勅を奉じて仙波無量寿寺(喜多院)を再興、大いに法義をふるった。
啓運日澄・平賀日意・身延日朝・日意・日伝らは、前後して仙波に笈を負うたのである。
このように関東台の基礎を築き正慶元年一一月二〇日、八〇歳をもって入寂した。
古来、史伝に諸説がある。
(1)無動寺五世、(2)仙波喜多院の法、(3)日蓮聖人の叡山における師、(4)日蓮聖人の叡山における学友等である。
尊海と聖人の関係を論じた最初の文献は圓信の『破日蓮義』(永正元年=一五〇四)のようである。
本書によれば聖人は無動寺尊海の僕従であるという。
その後、一如院日重の『見聞愚案記』に、聖人は「武蔵千波の開山尊海と御同学」とし、禅智日好の『録内扶老』、了義院日達の『鷹峰群譚』にいたって、聖人の叡山遊学の推奨者、および叡山での師を無動寺五世尊海とし、これが宗門の伝承の基本となったと考えられている。
このような文献から尊海をもって、聖人の同学、聖人の師という二説が生れたのであるが、一方『日大直兼問答記』には「大聖人、俊範より天台の法門は御相伝也」とあり、聖人の叡山における師に、また二説を見たのである。
近年の研究において、聖人の叡山の師は俊範であろうとする見解(山川智応『日蓮聖人研究』、浅井要麟『日蓮聖人教学の研究』)が提出されており、なかには聖人は俊範義の一聴者であったかという説(高木豊『日蓮―その行動と思想―』)もある。
従って尊海は、日蓮聖人よりも三二歳も年下である上、両者の叡山遊学の時期が重ならないことから、尊海聖人の叡山における師友とする説は否定されねばならない。
また『本化別頭仏祖統紀』によると、玉沢の日昭は叡山において尊海を師としたといい、日蓮聖人入滅後の正安二年(一三〇〇)再び叡山に尊海を訪れたが、その時尊海は九一歳であったという。
この尊海が仙波の尊海と同一人物か、無動寺の経海の誤伝か、それとも『天台座主記』『華頂要略門主伝』所載(寛元元年=一二四三=一二月の項)の「権少都尊海」(伝未詳)かとの検討がなされている(『日蓮聖人研究』)が、「蓮長なる者有り、吾故友也」と叙述されているところをみると、日蓮聖人と同学説の尊海であることが解ける。
従って『本化別頭仏祖統紀』の尊海に関する記述は信頼がない。
尊海を日昭の叡山における師とすることも定かではない。
なお『本化別頭仏祖統紀』は更に、日昭の弟子日祐(玉沢妙法華寺第二世)は尊海の弟子智祐であり、日昭が正安二年、洛陽(列伝では洛湯、別伝では叡山となっている)に尊海を訪れた際、尊海の命により日昭に更衣したという。
山川智応『日蓮聖人研究』、島智良「圓頓法印尊海」『大崎学報』八・九号、『遺文辞典』歴史篇「円頓房」の項、『日本仏教人名辞典』「尊海」の項、『昭和新修』別巻「いのもりの円頓房」の項

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