山川智応
山川智応
やまかわちおう
(一八七九-一九五六)日蓮主義研究者。
日蓮主義布教に基づく文芸活動に参画。
大阪生まれ。
幼名伝之助。
一五歳にて田中智学に心服して立正安国会に入会した。
家の破産により安国会布教所への出入を止め郵便貯金局判任官となる。
この間に仏教と陽明学を研鑽し文学にも親しむ。
貯金局で親交をもった高須梅渓の発起した浪華青年文学会の雑誌『よしあしぐさ』に二〇歳の時に寄稿「革新的文学」「道義的青年団体を設立すべし」「宗教と文学者」などを執筆した。
二一歳にて関西文学青年会主催の文学講演会で「社会革新の動機としての文学」を初めて講演した。
『よしあしぐさ」の一文を読んだ田中智学によって『妙宗』記者に招かれ、編集と工場監督の任に当った。
二三歳の折、(1)日蓮聖人の人格及び思想、事跡の科学的研究、(2)法華経の思想的、哲学的研究、(3)日蓮聖人及び法華経の思想による西洋哲学史の批判、の三点を誓った。
智学著『宗門之維新』を読んで智学を鎌倉要山に来訪した高山樗牛とも交友を深めた。
この頃から『妙宗』誌上に研究論文を発表しはじめ、本化妙宗自活布教隊の主幹となるかたわら『本化妙宗式目講義録』の編録整理に携わった。
三一歳にて伝道誌の編集長となり、三三歳の時に処女作『和訳法華経』を訳註した。
引続いて『本化聖典大辞林』の編集主任となり執筆に取組んだ。
更に『日蓮聖人伝十講』や法華経講義・日蓮教学の論文を書き(『法華経十講』『日蓮聖人研究』『本門本尊論』『日蓮聖人の実現の宗教』『観心本尊抄講話』『開目抄講話』等多数)、また四三歳の時に創立された天業民報社の社長となったが四八歳にて三度目の肋膜炎を患い社長を辞し同社主筆となって専ら執筆活動に傾注していった。
『明治以来現代にいたれる国体思想の消長』『大日本国と日蓮聖人』『東西文明の相剋と相融』などの研究内容を執筆、日蓮主義入門に関する論文を発表した。
五四歳の時に雑誌『信人』を創刊、日刊『大日本』の主筆にもなった。
昭和八年(一九三三)五五歳の折『経一麿』を発刊した。
小説・評伝については「武田乙若」のペンネームを使い、日蓮宗機関誌『日蓮主義』に「日像上人」など伝記小説を発表した。
翌年、五六歳にて文学博士の学位をうけ、学位論文『法華思想史上の日蓮聖人』を新潮社より刊行した。
次いで師子王文庫の学頭となり、智学没後は研究と講演に全力を傾け『日本国体と日蓮聖人』や新潮社の新伝記叢書として『日蓮聖人』などを書いた。
戦後は、昭和維新の建設を意図し敗戦を「天佑神護」と述べ、昭和二一年四月に本化妙宗連盟を設立した。
研究の中心を日蓮聖人の宗教哲学研究におき『日本的デモクラシィーの開祖としての日蓮聖人』(昭和二一年)『基督教と日蓮聖人の宗教』(昭和二六年)などを執筆、更に日蓮聖人御書の真蹟集を刊行し続けた。
昭和二七年六月にはNHKより「法華経の行者と現代」を放送した。
病状は次第に悪化し、翌年にはしばしば喀血して絶対安静となり、七八歳にて死没した。
《『文学博士山川智応先生遺影略年譜』、『遺文辞典』歴史篇「日蓮聖人研究」「日蓮聖人伝十講」の項、『国史大辞典』一四巻「山川智応」の項》