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伝道

でんどう #576

伝道

でんどう

伝道という言葉は、本来キリスト教の影響から生まれたものの感があるが、布教と同義のように用いられることが多いようである。
併し伝道とは包括的かつ普遍的な教義或いは原理的なる立場を主張するものであり、布教はその宣布活動で、代と共に方法形式等が変化する方法論的な傾向が強い。
従って伝道のために布教があると考えてよいであろう。
勿論、伝道の成果は布教において成果を期待できるということは否定できない。
従って徒らに伝道布教とを械的に区別することは、実際の活動面に於て詭弁のそしりを受けるかもしれない。
教における伝道は、仏陀の教えの真理性と普遍性に基づき、いわゆる仏道の宣布(布教)活動によって、大衆との結縁を得るのである。
その布教活動の方法・形態等は相似的であっても、その底となる道(教法)は、各宗の宗祖の遺法に依拠することは言うまでもない。
布教の形態・方法については、説教・法話・講演・法座その他視聴覚的な方法があり、法華経七喩の如きもまた布教の著名な教相であるということができるであろう。
現代においては育機器の発達に伴い、テレビ・ラジオ・映画・スライドその他放送利用によって、伝道の手段方法は各種各様に布教活動の武器として、その実効性を発揮することができる。殊に身近なものとしては、テレホン説教は茶の間に浸透し、ワイアレスマイクは街頭布教に有力な力となるであろう。
伝道は求心的であり、布教活動は遠心的であって、仏陀の教えと法と道を社会に向ってひろく開示する布教の結果、大衆あるいは個人を「以信得入」の世界に吸引するものでなくてはならない。
社会化は一般に一方交通的な可能が強く、社会教育的な宗教運動としての傾向が強いようである。いわば宗教的な社会教育ということができよう。
社会化の活動部面は広い。
宗教家の在る所、いずこも社会教化の場であるといっても過言ではないし、宗教家自身、わがある所、教化布教の場であるとの自覚を持つべきである。
法華経はこの場の価値を明示している。
例えば「我れ化の四衆、比丘比丘尼および清信士女をつかわして、法師を供養せしめ、諸の衆生を引導して、これを集めて法を聞かしめん」あるいは如来神力品において「園の中に於ても、林の中に於ても、樹(き)の下に於ても、若しは僧坊に於ても、白衣の舎(いえ)にても、若は山谷昿野(せんごくこうや)にても」とあるごとく、十方悉く布教のための宝山なのである。
この布教の力はその教理そのものの普遍と真実への確信を基とするものであり、社会変動の影響を受けつつ、なお積極的に社会の変動に対応するものでなくてはならない。
伝えられるところによれば、かつて北米への日系移民の際、母において移民たちの宗教であった浄土真宗が、この機能を果したとの事である。つまりその信仰に支えられて、激しい労働と差別と貧困の中を移民たちは、真宗のえによって慰められ、励まされ、忍耐と勤勉をもって生きぬいたのであったと評価されている。
布教は現代のきびしい社会にあっては、口先だけの「お説教」であってはならない。
このことについて、マルクスは「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。しかしかんじんなことはそれを変えることである」と「フォイエルバッハに関するテーゼ」の中で述べている。
布教者は口ではなんとでも言えるような、説教の精神主義的な哲学者であってはならない。
犬養毅は「聴衆を感服させようなどと言う心で演説しているは、真に聴衆を感服させることは出来ぬ」と述べている。
ともに他山の石とすべき言葉である。
このことは、宗祖の遺法をどのようにして現代の変動しつつある価値観や思惟の中に、あるいは生活感情の中に浸透させていくかということであって、そのためには社会科学的な思考や論が大切となるのである。つまり形式的な解釈論であってはならぬということである。
教法すなわち、聖人の遺法は、その真実性を永遠に貫ぬこうとするものであって、その時代的な開顕は即時代的な形式、内容をそなえるものが、布教活動である。
従って布教に於ける歴史的代に対する解が第一次である。
日蓮聖人が「教・機・時・国・序」の五義を立てられた事は正に布教の五大要素なのである。しかも、その基底に「如説修行」という歩むべき「道」が横たわっていて、それこそ核心であるといえよう。なんの如説修行ぞ?それは法華経そのものの生活的・社会的実現の道なのである。それは法華経の人生産なのである。
布教はその意味で教法伝道の生産活動であるといえる。
日蓮宗は旧来「伝道宗門」と称しているが、およそ宗教教団で伝道は、その在るべき姿である。
宗門の伝道は、その基礎学として「宗学」があるが、既成仏教々団の宗学はいわゆる訓詁化して、それを具体的な布教活動に展開するには、すこぶる困難が伴う。
布教師はそれを学習するとともに、その時代的に大衆の生活次元に弘布しなければ、その実効は期し難い。
宗学は宗門にとって、よってもって立つべき理念の原点であるが「宗派宗学というものが、仏教の学門的研究に対して大きな障害をなしている。宗学というのは三百年ほどまえの封建時代の遺物で、どの宗派でも後生大事に奉っているが、これがとんでもない誤りである。それぞれの宗祖の独創的な思想を固定させ罐詰にしたインスタント料理がいわゆる宗学なのである」と、渡辺照宏は昭和四二年(一九六七)一月一日の「中外日報」で述べている。
やや矯傲な感がないでもないが、反省に資するところがあると思える。
伝道の場における宗学の位置づけは、布教師の重大な関心事であり、信仰の根本的な裏づけなのである。
宗学の背景と確信のない伝道は、江戸代の「心学」化するであろう。
問題は独的排他的な宗学ではなく、その時代化、近代化により万人が会通できることが布教の第一原則であり、これによってこそ化力を発揮するのである。
伝道は、その宗派教派―包括的には仏教の真実性の発揚であり、宗教的公民道徳運動であり、信徒の獲得であり、旧来の檀信徒化入信等が使命である。
従来行われている伝道形態は、一方交通的なきらいがある。
勿論、対象が大衆であれば、やむを得ない形態であるが、その場合は布教師の人格が大きな影響力となるであろう。
法座の在り方は、マンツウマン的な要素があり、膝を交えた人間的な親しみの中に、日常茶飯を通して「え」を体認していくやり方である。
日蓮宗の修法は、その意味でも吸引力と信頼感が深いし、布教伝道の大きな力である。
今後はいっそう修法の学問的基盤を樹立しなければならない段階にさしせまっていると思われる。
伝道の社会的・道徳的活動は重要なことである。
それは動く寺院としての面と、招く寺院の在り方を統合した伝道である。
その業の種類としては幼稚園保育園・子供会・日曜学校・信行会等を一応あげることができる。
信行会は法座的方式を導入することに努力すべきである。
子供会は遊びと化を混成しなければ魅力がない。
子供は本来遊ぶことを生活としているからである。
児童の宗教化の大切な期は、模倣心の強い幼期と軽信期の児童中期の頃であるといわれている。
理性解を通じてではなく、日常の情緒的な感化によるべきであろう。
その指導者の人格とのふれ合いや儀式を通じて、健全な運営がなされるのである。
子供会あるいは日校(日曜学校)の教案としては次の四つの目標を一応立てることができる。

(1)を中心としたもの。
(2)伝記を中心としたもの。
(3)の徳目によるもの。
(4)教的行を中心としたもの。

そのために方便として音楽、レクリエーション、スポーツ等を適宜配当しなければならない。
勿論、教導は、これらの目標に基づく教材選択が重要であるが、要は生活指導による宗教的なしつけと習慣形成にある。
その方向方式のいかんを問わず、伝道宗教の生きる道である。
将来「伝導学」ともいうべき、なんらかの実践宗学的な体系づけが必要となるであろう。
《野村定去『教日曜学校開設の手引』、全青少年化協議会『青少年化の諸形態』、全青『日校運営の実際』、全青『開設のハンドブック』》(三田村龍全)

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