妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

映画

えいが #3232

映画

えいが

映画は明治二八年(一八九五)にフランスのリュミエール兄弟によって開発された。わがに輸入されたのは明治二九年に神戸市の高橋新治が輸入した「キネトスコープ」で、「電気作用写真活動械」といわれた。
神戸で公開され、動く写真・動く幻灯と呼ばれたが、明治三二年には日本人の試作による映画が銀座や浅草などで上映されるようになった。 それは演劇・風景あるいは芸者の踊りなどの実写もので、上映に際しては弁士の説明と軽音楽の伴奏がなされたが、弁士(活弁)の先駆は駒田好洋であった。 当のポスターには「活動大写真/発明者米理学博士ヱジソン氏/米嶄新奇抜新写真/賜皇太子殿下台臨/世界無比率先日本写真/八月一一日より開場仕候、午後七開會、會主広目屋/本郷春木座」などの文字が見える。
映画の本格的製作は大正元年(一九一二)に日本活動写真株式会社(日活)、大正九年の松竹キネマの創立を待つが、昭和六年(一九三一)トーキーが出現するまでの無声映画時代末期の一〇年間は、ある意味で日本映画の黄金代であった。
こうした社会の娯楽と育・報道に新しい息吹に刺激され、大正八年(一九一九)山梨県南アルプス市泉能寺藤井仁(後の身延法主・日静)、身延町本国寺秋山智照、伊藤海聞(後の池上本門寺貫首・日定)、結城瑞光らは、日蓮宗青年活動布教隊を結成し、日活製作、尾上松之助(目玉の松ちゃん)主演『日蓮聖人御一代記』や嵐璃徳主演『日蓮記』を山梨県下を始めとして各地の劇場や寺院で上映したのが本宗映画布教の起源である。また大正一〇年には、顕本法華宗の僧侶や妹尾朔(宇都宮主計之介)が発起人となり、日蓮主義宣伝株式会社が株式募集をし、翌一一年六月に京都市公会堂で「鍋かむり日親」を公開し、以後各地でで上映した。
宗門としては大正一二年(一九二三)九月一日関東大震災後、米から帰朝した角田致敬(新居日薩会下)の提唱により、日蓮宗宗務院教学部に映画布教班が置かれた。 角田は自ら巡回布教の陣頭に立ち、民精神作興運動を兼ね、各区を巡回中に遷化した。
また社会課が設けられると、免囚保護・幼児育等一般社会務を担当し、視聴覚布教に重点を置き、教学部主事岡田栄源・社会課主事加藤通温を首班として中村錬敬・土橋観英、中西本秀・木村邦随・肉倉貫義・栗栖顗調らが、全国を巡回して映画班の活動はめざましかった。
上映の映画は主として嵐璃徳主演『日蓮記』と牧野プロダクション製作、芝金杉正傳寺加藤雅雄扮する本妙臨師外伝『久遠の響』、京都寂光寺長尾栄進主演『日蓮記』および教育映画『賢婦せき女』、宗門ニュースなど言説布教とタイアップして行われた。
大正一四年宗務院は、聖人の足跡を訪尋して霊跡映画『本地の風光』トーキー八巻を、中村錬敬原作、竹田智道監督、山田忠治撮影、肉倉貫義・栗栖顗調編輯、中西本秀解説で製作し、昭和六年(一九三一)一〇月には勅額拝戴宗祖六五〇遠忌法要を大船松竹に撮影させ全で公開した。
また宗門ニュースはある毎に収録されたが、戦災で散逸したものが多い。
戦後数年映画布教も絶えていたが、伝道部・新聞部の努力で復活し、『求道』をはじめ、統一信行の一端に利用されている。 また早川雪洲主演の『国難を叫ぶ日蓮』、長谷川一夫主演の『日蓮と蒙古大襲来』、萬屋錦之助主演の『日蓮』、その他数篇が一般会社によって作られている。

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