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勅額拝戴

ちょくがくはいたい #875

勅額拝戴

ちょくがくはいたい

昭和六年(一九三一)一〇月一日、皇より「立正」と書いた額が日蓮宗に下賜され、これを日蓮宗身延山の祖廟に奉額したこと。
この年は立正大師号宣下一〇周年と日蓮聖人六五〇遠忌にも当っていたので、勅額拝戴と合せた三大行事は、法国冥合の宗風興隆及び聖旨奉答の日蓮宗体制を形成する重要な内容となった。
昭和五年、管長酒井日慎は国柱会総裁田中智学と勅額降賜に関する請願を協議、これをうけて田中智学は請願文を起草した。
翌昭和六年四月、法主岡田日帰を願主として請願書を宮内大臣・文部大臣に提出。
次いで文部省の要請により日蓮宗のほか顕本法華宗・法華宗・日蓮正宗・本妙法華宗・本門法華宗・不受不施派不受不施講門派・本門宗の日蓮門下各派管長名の念書が出され、他方では田中智学が宮内大臣と会談するなど交渉を進めて、六月に勅額の下賜が決定された。
日蓮宗は、ただちに勅額拝戴のための準備会議を開くと同時に祖徳と天恩に報謝する宣示を全僧俗に示し、皇運を扇場し宗風の興隆を図る布教の開始をまとめた勅額欽賀大挙宣伝の活動を決定した。
一〇月一日、法主管長等二二名は宮中に参内し宮内次官より「立正」の勅額と「勅額 立正 身延久遠寺、右思召ヲ以テ下賜候」と記される御沙汰書を授与された。
日蓮宗は六〇〇〇余名が結集して二重橋前で「勅額奉迎の儀」を行い、新橋まで奉迎行列をくみ池上本門寺にて勅額拝戴式および勅額奉展の儀を修した。
翌二日には身延山祖廟ならびに棲神閣において拝戴式が七〇〇〇余名を集めて挙行された。
法主は「法国感応の第一歩なり」と述べ、管長は「勅額の感応は是れ興教実行の新しき勅なり」と強調した。
首相若槻礼次郎・内相安達謙蔵・文相田中隆三および軍の元老東郷平八郎らは「宗門未曽有の光栄」との祝辞を呈した。
「東京日日新聞」・「報知新聞」も勅額拝戴式典を「日蓮宗門の誇り」「宗門空前の盛」と大きく報道した。
明治以降、東・西本願寺・永平寺・知恩院等に勅額が下賜されてきたが、日蓮宗に対する勅額は第一一番目に当っていた。
日蓮宗は立正大師号宣下から勅額下賜にいたる事実を天皇により日蓮宗が公的に承認された証しであるとし「帝室をして本化の大士に寄せる国家承認の声明」と主張した。
ここから立正大師としての日蓮聖人の祖徳を高めつつ皇室の世を宣揚・翼賛する皇恩奉答に取組む体制が強化されていく一歩となった。
また当の不況下で労働運動、農民運動が展開され、反体の「危険思想」がひろがっていた態を重視していた政府は、これらの運動や思想を弾圧する一方、国体護持の国策に対する協力と思想善導政策を推進していたことにより「国運の興隆に寄与せしめんとする深遠なる大御心」に基づいて日蓮宗に勅額を下賜して、思想国難への善導を示したことも勅額拝戴が実現した大きな由であった。
内相安達謙蔵は、拝戴式典において東亜の和平を確保するために盡忠報の特美を発揮して聖恩の万分の一に奉答することを日蓮宗に要請した。
多くの軍人・政治が支援尽力したのも、この点を重く見たからである。
日蓮宗にとっては祖廟中心制の枢要を意味した。
日蓮聖人六五〇遠忌に際して推進していた祖廟中心・挙宗一致の宗是を確立する象徴となり、これ以降の法国冥合運動の促進と聖旨奉答伝道への出発点になった。
管長酒井日慎勅額拝戴式典慶疏を奉読し「廟頭の三願」を高唱した。
ち挙宗一致、祖廟中心の宗是を樹立して一宗崇敬の標的を確立せん。
挙宗一致、弘通本位の宗是を実行して正法宣揚の大旆を掲げん。
挙宗一致、宗門の経綸を整斉して永く人法の睽離を絶たん、との内容が力説された。
日蓮宗は翌昭和七年一〇月に身延山で勅額拝戴一周年の儀(聖旨奉恩大法会)を行い、知法思国への献身と満洲変勃発に伴う難打開に粉骨砕身することを誓い、戦地慰問や「聖旨奉答鮮満巡」を展開するに至った。
《『勅額拝戴宗祖六五〇遠忌要録』(日蓮宗宗務院)》

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