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声明

しょうみょう #1283

声明

しょうみょう

菩薩の徳を讃える偈や、仏菩薩の名号などに旋律をつけてうたうものを指す語で、要約して言えば教儀式に於ける声楽のことであり梵(ぼんばい)ともいう。
通常の勤行で唱える「道場偈」「奉送」について略記する。
「道場偈」は勤行(お勤め)の開始にあたってお唱えする文。文の読みは「我が此の道場は帝珠の如し。十方の三宝影現する中に、我が身三宝の前に影現し、頭面を足に摂して帰命し礼せん」。意味は、勤行のこの場所(道場)には十方(あらゆる方向)から三宝さま(仏教信仰で最も尊敬すべき仏・法・僧の三つのかけがえのないもの)がお出ましになられますから、威儀を正し、うやうやしく合掌礼拝して、帰依のまことをお捧げいたします、という気持を述べ伝え、三宝諸尊の道場への来臨(お出まし)を請う言葉。
「奉送」は勤行(お勤め)の終わりにあたってお唱えする。文の読みは「唯願わくは諸の聖衆、決定の我れを証知したまえ。各到りて所安に随い、後に復哀赴を垂れたまえ」。意味は、この道場に来臨くださった諸尊聖衆に対し、帰依のまことを捧げ一心に信心に勤しむ修行の姿をご覧いただいたことに感謝し、諸尊それぞれの出身地へのお帰りを願い、さらにこの後もどうかこの道場への慈愛の来臨を切望させていただきますと想いを伝える。
さて、もともと声明という語は、Śabda vidyāの訳語で、インドバラモン僧の一般教養として習得すべき五科目の学問、即ち(一)声明(言語、音韻、文法などの学問)、(二)因明(論理学)、(三)内明(自家の宗旨を明らかにする学問)、(四)医方明(医学、薬学)、(五)工巧明(工芸、技術、算暦の学問)の五明(ごみよう)に語源を有するものであるが、わが国においては平安時代から、儀式における声楽という意味に用いられるようになった。 虎関師錬(一二九八-一三四六)撰の『元亨釈書』第二九・音芸志に「声明とは印土の名にして五明の一なり。 支那には、偏に取りて梵と曰ふ。 曹陳王、端を啓くなり。 本朝には、遠く竺に取りて號を立つ」といい、また、凝然(一二四〇-一三二一)は『声明源流記』に「然るに五明の中に基の声明あり。 彼れは乃ち諸方の言音に通達し、に対して法を説き義を窮む。 三声の相、六釈の義、七例の美、八轉の声、比等の行相は是れ彼の宗旨なり。 今、此の声明は唯、音曲を論ず。 文を誦するに高下あり。 偈を唱ふるに屈曲あり。 宝号に歌声を作し、頌に吟詠を致す。 甲音乙音、宜しきに随って歌し、引声短声、に任せて誦詠す。 呂曲、雅質を挙げて耳を悦ばしめ、律曲、哀温に合して心を勧む。 屈曲の音は声明の眉目、質直の韻は、唱引の綱領なり。 唯呂単律は純一の音を示し、呂律の交参は兼通の声を顕わす。 精は宮徴に合し、唱は平盤に和す、五音数重ねて循環し、引唱七調多く廻り、往環囀唱してただ耳を悦ばし、心を悦ばすを以て本と為す。 是くの如き等の相を名づけて声明となす。 五明の中の声明の相状に異なれり。 然れども、亦音を精しくするは彼の声明に似たり」(『正蔵』八四巻)とわが国における「声明」という呼称の由来を述べている。
そして、声明は、インド、中国、日本と伝わった三国伝来の音楽であると言われていながら、インド、中における詳しい歴史はあまり明確でない。 しかし、原始教教団においても、釈尊の説かれたえを偈頌として、これに旋律をつけてうたうことが行われていたであろうと想像される。 このことは『十誦律』第三七に「比丘あり、跋提と名づく。 中において第一なり。 是の比丘声好なり。 に曰して言く、世尊、願くば、我、声を作すことを聴したまへ。 言く、汝に声を作すことを聴す。 に五の利益あり。 身体疲れず。 憶ふ所を忘れず。 心疲労せず。 声音壊れず。 語言解し易し。 復た五利あり。 身疲極せず。 憶ふ所を忘れず。 心懈惓せず。 声音壊れず。 諸を聞かば心則ち歓喜せん」とを作すことの利点をあげていることなどからうかがえる程である。
次に中声明の歴史についても、インドにおけると同様、不明の点が多いといわれているが「魏の陳思王曹植が、ある日、山東省泰安府東阿県の魚山(ぎよさん)に遊び、空中に響く妙音を聴いて、その旋律をもって唄讃を作った」という『魏志』の記事が声明に関するもっとも古い記である。 これより後、魚山という名は、声明の代名詞としてつかわれるようになった。 また『高僧伝』によれば、唐代以前には、康僧会、帛法橋、康法平など儀式音楽に勝れた僧があらわれ、唐代(六一八-九〇七)には、四箇法要(唄、散華、梵音、錫杖の四声明曲によって構成した法要)を創始した智昇、五会念仏の法照、密教儀式を示した善無畏などが出て、教儀式は多彩な発展を遂げたが、会昌五年(八四五)の武宗破以後次第に衰退していった。 なお、声明の曲としてインドから中国に伝来したものは、ほんのわずかで、声明曲の大半は中でつくられたものであるといわれている。
日本における声明の歴史については『声明源流記』に「道璿律師は、辺方に誦経の威を播く」と記し、わが国声明の初祖であるとしている。 奈良代には、遣唐使の派遣、唐僧の来朝などによって法会儀式も次第に整えられ、法会も盛んに行われるようになった。 養老四年(七二〇)には、転経唱礼を正す詔勅が出され、唐僧、道栄の曲節によって儀式を行うように指示している。 (『続日本紀』)ついで、平勝宝四年(七五二)には、東大寺大の開眼供養会が行われ、梵音二〇〇人、錫杖二〇〇人、唄一〇人、散華一〇人と職衆を記し(『東大寺要録』)「が東方に移ってから、このように盛大な儀式は、いまだかつて見ない。」 (『続日本紀』)と記しているほど盛大な法会が行われたのであるが、平安遷都(七九四)を契とした情勢の変化と台真言など新の抬頭などによって次第に吸収される形でおとろえていった。
一方、空海によって唐より請来された真言声明、最澄、円仁によって伝えられた天台声明が主流となり、この二流がこの時期以降のわが国声明の大きな源となっている。 その中の真言宗系統としては、東寺、高野山金剛峯寺、仁和寺、醍醐寺などの各山に伝わる進流(しんりゆう)声明、智積院(智山派)、長谷寺(豊山派)の法脈に伝わる新義派(しんぎは)声明があり、また、天台声明は唐の仏教儀式と声明を学んで帰朝した円仁によって伝えられたものとされている。 『入唐求法巡礼行記』によれば「慈覚大師円仁は、承和五年(八三八)に入唐して楊州赤山院にて声明の法を学び、五台山竹林寺に登って、法道和尚から、法照の五会念仏及び引声阿弥陀経の法を受けた」とある。 そして、比叡山延暦寺第三世座主となった円仁は、常行三味堂を建てて、引声念仏をつとめ、また、長音九条錫杖(ちょういんくじようしやくじよう)、独行懺法(どくぎようせんぽう)、羅漢勧請(らかんかんじよう)、長音供養文(ちよういんくようもん)、梵網戒品(ぼんもうかいほん)、云何唄(うんがばい)、始段唄(しだんばい)、異説唄(いせつばい)、普賢讃(ふげんさん)、千年教化(せんじゅきようけ)、散華(さんげ)、驚覚真言(きようがくしんごん)、三十二相、声明例時、法華懺法、などの曲を伝えたといわれ「天台声明の祖」と称される。 円仁以降の相承については『元亨釈書』巻二九には「智証、相応、浄蔵、慈恵、源信、覚超、壊空、寛誓、良忍(略)と次第しており、このうちでも、良忍(一〇七二-一一三二)は、融通念仏宗の開祖で、円仁以後六流に分派していた声明を統一した人で、天台声明中興の祖といわれ、また声明の墨譜を改良して、目安博士(めやすはかせ)を考案したといわれている。 また、仁二年(一一〇九)に比叡山より西北の地、大原に来迎院(らいごういん)を建てて声明の道場としたが、この大原を、中国五台山より西北にあたる魚山になぞらえて、大原魚山(おおはらぎよさん)と称し、以後、天台声明のことを、大原流声明あるいは、魚山声明と呼ぶようになった。 また、大原には良忍の来迎院とならんで、良忍の弟子永縁が建てた勝林院があり、共に声明の道場として栄えた。
そして日蓮宗の声明は、浄土宗、浄土真宗、禅宗などと同様に、この天台声明に源をもつものである。 しかし、その歴史については、まだ明らかでない部分が多いが、法会の記録、声明墨譜、宗門史の年表などによってあらすじをたどってみると、まず、元亨三年(一三二三)に「像師、法華講式を著し、梵唄、伽陀をもって宗祖報恩会を修し、恒例とす」(『龍華年譜』)とあるが、これは聖人滅後四一年の事であり日像(一二六九-一三四二)が後醍醐皇より洛中に土地を賜わって妙顕寺を開創した二年後のことである。 こうして団が地歩を固めると共に法要儀式や声明を整える必要性も大きくなり、永享三年(一四三一)の日蓮聖人一五〇遠忌頃からは、法会も次第に盛大なものになり、妙顕寺、本圀寺などにおける日蓮聖人報恩会の盛儀の有様が『言継卿記』などに記されている。 とりわけ正九年(一五八一)、日蓮聖人三〇〇遠忌から享保一六年(一七三一)日蓮聖人四五〇遠忌頃までは、宗門における法儀声明の全盛期とも言うべく、四箇法要、論義、法華懺法、頓写会、十種供養、講式、千部会など各種の法会が営まれたことが『身延鑑』、『池上本門寺歴代得意記』、貞松蓮永寺蔵『法要次第・声明墨譜』、大野山本遠寺蔵・伝心性院日遠筆『声明品』などにより知ることができる。 そして、これらの資料に記されている声明の曲名には唄、散華、対揚、咒讃、伽陀、三礼、仏名、教化、受持、薪句、和讃などがあり、法華懺法、論義、十種供養、四箇法要など各種の法要が行われたことを裏付けている。 そして、この期に身延、池上、京都本国寺など各山もそれぞれに法儀声明隆盛となったが、当時、これらを身延流池上流光山流と称したかどうかは不明であり、また誰が、どこから何を伝えたかという相承の系譜についても、はっきりわかっていない。 ある説には行学院日朝(一四二二-一五〇〇)によって比叡山から請来したといい、あるいは心性院日遠(一五七二-一六四二)によって伝えられたとする説もあるが、今後の研究に俟つことが多い。 この他『本化別頭仏祖統紀』列伝の中、宝塔院日禅(一五八二-一六五〇)伝に「師、声明を能くす。 壮年、師を求めて大原に掛搭し、究伽陀、すこぶる秘伝をつくす」という記述や、貞松蓮永寺蔵・大僧都日近(大野山本遠寺第四世・元禄一〇年=一六九七卒)著の『声明墨譜及び法会次第』中の「唄」の墨譜に書き込まれている実唱上の注意書が大原魚山伝承の「始段唄」の口伝とほとんど一致していること、法会次第の「十種供養」、「四箇法要」の組立て等が天台宗依用のものと大差がないことなどから推して、江戸末期近くまで天台声明の影響が強かったものと見ることができるようである。 しかし、もう一つの面として法華経多読を第一とする意識がつよく、声明の伝承などはおろそかにされ伝統を保持し得なかったことも実である。
そして江戸末期、加賀立像寺に「充洽園」を開創した優陀那院日輝(一八〇〇-五九)は『充洽園礼誦儀記』を編纂して、法要儀式の軌範を示し「礼法華儀式」、「法華観心讃会」などの法会を修して門下生を教導した。 この門から、近代日蓮宗の中心的人材が輩出したが、その一人である新居日薩(一八三〇-八八)は、身延山久遠寺、池上本門寺に晋董し「法要は厳重につとめるべきである」と説いて一山の僧侶を指導したために、僧風大いに揚ったと伝えられている。 そして、こうした下地が昭和六年(一九三一)の日蓮聖人六五〇遠忌以後の宗定法要式宗定声明の制定の大きな力となったのである。
宗定声明は、昭和一二年(一九三七)八月に宗務院主催で、各山代表を身延山に集め、天台声明の大家、多紀道忍(一八九〇-一九五〇)を招いて指導を仰ぎ、協議検討の結果、墨譜を定めて『日蓮宗声明品』と名づけて昭和一三年五月に発表され、その後、数度墨譜に若干の改訂がなされたが、声明導師石井日章(一八九四-一九七〇)の指導により、声明師が養成されて次第に普及しつつ現在に至っている。
声明の音律は、十二律(じゅうにりつ)即ち壱越、断金、平調、勝絶、下無、双調、鳧鐘、黄鐘、鸞鏡、盤渉、神仙、上無と五音(ごいん)即ち宮、商、角、徴、羽(一図)をもってあらわし、実唄上の音譜は博士(はかせ)または墨譜(ぼくふ)と呼び、文字の真横、上下、斜上、斜下の五方に線を出し(二図)上る音は上げ、下る音は下げ、ゆれる音はゆれるように音の動きを視覚的に表現した譜を用いる(三図)。 このような墨譜目安博士(めやすはかせ)という。 また、旋法には古来、呂曲(りよきよく)、律曲(りつきよく)、中曲(ちゆうきよく)の三種(四図)があるが、宗定声明は、このうちの律曲として節付けされたものである。
《東洋音楽学会編『仏教音楽』、多紀道忍著『日蓮宗声明博士』、大野山本遠寺蔵『声明品』、貞松蓮永寺蔵『声明墨譜及び法会次第』、身延山久遠寺刊『梵唄』、『池上本門寺歴代得意記』、『本化別頭仏祖統紀』、山田日真編『日宗龍華年表』、『日乗上人日記」、『新居日薩』、平楽寺刊『声明品』、池上本門寺刊『池上流声明品』、『宗定日蓮宗法要式』、『広説仏教語大辞典』「聲明」の項、『新版仏教学辞典』『岩波仏教辞典』『国史大辞典』七巻「声明」の項
(早水弁静)

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