新居日薩
新居日薩
あらいにっさつ
(一八三〇-八八)字を文嘉、文明院と号す。
日蓮宗一致派初代管長。
今日「薩・鑑・修」と呼ばれ、近代日蓮宗の三傑と仰がれる吉川日鑑(一八二七-八六)、三村日修(一八二三-九一)らと並ぶ一人。
新居薩師、薩師と称される。
天保元年一二月二六日、群馬県桐生市の新居宗衛門の六男として生まれ、幼名を林之助といった。
九歳にして埼玉県秩父浄蓮寺住職、大車院日軌(一八〇四-七二、駒込蓮久寺・神楽坂善国寺・柏崎妙行寺・池上本門寺等を歴任)の弟子として得度剃髪。
一一歳にして千葉県にある飯高檀林に鼎立する三谷の一つ、城下谷(ねごやさく)に入檀。
次いで一九歳のとき近代日蓮教学の起点と仰がれる幕末の巨匠、優陀那院日輝(一八〇〇-五九)の開く、金沢立像寺の私塾「充洽園」に遊学。
二五歳までの六年間日輝の薫陶を受けた。
日薩が日輝の学風に触れたことは、日薩の生涯を決定させるものであった。
それは日輝の教えをどこまでも具体的に活動したのが日薩であったからである。
安政元年(一八五四)、充洽園での修学を終え、江戸駒込蓮久寺の住職となる。
かたわら蓮久寺より下谷の藤森弘庵の塾に通い、漢字・儒学の研究に励む一方、自らも鶏渓精舎を設け約一〇年間講義を行う。
会下に久保田日亀(一八三九-一九一〇)、守本文静(一八五四-一九〇九)、小泉日慈(一八四一-一九二三)らが慕って集まる。
元治元年(一八六四)、日薩は神楽坂善国寺の住職となる。
善国寺は将軍家、田安家、一橋家の祈願所であるため山務に追われ、勉学に勤しむことのできない日薩は同年再び蓮久寺に戻った。
この年、日薩は池上南谷檀林の講師になり、池上と蓮久寺を往復する生活であった。
しかし明治維新三年前の世の中は騒然とし始め、日薩も池上の妙教庵に移り檀林の教育に専念し、ここにおいて維新を迎えた。
時に三九歳であった。
明治維新の廃仏毀釈の嵐の中で、明治二年(一八六九)芝増上寺における諸宗道徳会盟第二回会合には日蓮宗を代表し『日蓮宗建言』をもって自宗旧幣一洗之論・『池上学寮建言』をもっては三道鼎立練磨之論の卓説を振るった。
同五年、大教院設立に伴い仏学教師として吉川日鑑、河田日因(一八二七-九九)らと共に出仕する。この大教院内において日薩らは「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という、教団伝統の折伏精神の旗印とされる四箇格言を「仏念ずれば間無(ひまなし)、天魔禅(しずか)なり、言真なれば国亡、国の賊律(おさ)まる」と独特な読み直しをした。
日薩のこの読み直しは、日輝が『立正安国論』を時代認識のなかで非現実性を唱え、折伏を廃した思想的思策に基づくものであるが、仏教の復興を大前提とする時でもあり「自宗他宗の習染を脱し、一味和合」を主旨とする同盟会規則の中での出来事であった、と解すべきであろう。
翌六年、千葉県に監獄が開設されるや教誨認許を得、わが国初めての獄内説教を開始するに至る。
同七年、越後(新潟県)柏崎妙行寺の住職になっていた日薩に「若くして大人物」として教部省より身延山久遠寺七三世の住職申達の命が下った。
時に四五歳。
この年の四月、各派ごとに管長を置くこととなり、日薩は日蓮宗一致派初代管長に推薦され、宗門運営上の行政面の要職に就き、身延・管長の一人二役の重責を背負った。
翌八年、身延山空前の大火災に遭遇。
日蓮聖人六〇〇遠忌を六年後に控えていた時である。
日薩は日鑑に「この復興事業と管長職とは我一人の能する所ではない、為宗為山、両者の中、卿その一を選び給へ」といい、「余が鈍才、両者とも其の任ではないが、強ひて之を為さんが衲(わし)は身延の山中にあって復興に従事せん」と日鑑が応えたという。
これによって身延を日鑑に譲り、日薩は久遠寺前住職として管長の要職に専念した。
同年大教院が廃されると、早々に日蓮宗碩徳会議と称して全国から代表者を召集して宗規を定め、全国を九教区に分けて第一区東京に大教、中教区に中教院を設けた。
この頃、各派ともに独自的発展を志す傾向を取り、日薩の理想とした日蓮門下統一の夢は破れた。
しかし身延、池上、中山、妙顕寺、本圀寺を代表する一致派日薩は、「一致に執し勝劣に偏するは、ともに宗祖の本意を得たものではない。須らく『日蓮宗』と称すべきである」との理念に基づき、一致派を日蓮宗と公称することを教部省に請願した。
この間、不条理だとして宗号取消を叫ぶ各派の抗議もあったが、同九年二月、単称「日蓮宗」が公許された。他方、日薩は大教院廃止後も超宗派的活動を展開した。
同九年三月、キリスト教の福祉事業や道徳布教に対応して、近代日本仏教最初の福祉事業である「福田会育児院」を創立し、約一二年間会長の重責を担った。
また翌一〇年、在家居士仏教運動を支持し、島地黙雷、福田行誡、原坦山らと「和敬会」を創立、釈尊論を講演するなどその活躍は多岐に亘る。
一方、師弟教育にも力を尽くし、同五年八月には東京芝二本榎承教寺に宗教院を開講、他に多くの子弟を日本全国に留学させた。
同一四年、日蓮聖人六〇〇遠忌に当り僧俗一体の「妙法講清浄結社」を創立、全国にその運動を展開し、著しく加入者を増やした。
また幼年僧にこそ教育の必要性を痛感し、同一六年に私財を投じて大教院付属第一沙弥校を池上永寿院に開設。
同一九年には大檀林に普通学として、英語、数学、物理、地理、一般科学等を開設した。
この日薩の教育方針の中から、明治、大正時代の近代日蓮宗を背負った人達が輩出されたのである。
明治一七年九月二七日、時の管長三村日修を身延山久遠寺住職に定め、自らは池上本門寺に六五世として晋山、しかし四年後の同二一年八月二九日、五九歳をもって池上永寿院で遷化した。
《『新居日薩』、『日薩和上百遠忌記念集』、『明治仏教史上における新居日薩』、『国史大辞典』一巻「新居日薩」の項、浜島典彦『お題目と歩く―近世・近現代法華信仰者群像』》**