久遠寺(日蓮宗総本山・身延山)
久遠寺(日蓮宗総本山・身延山)
くおんじ
〔身延入山〕「日蓮聖人の身延御入山の聖意については、古来種々説かれているが、幕府三諫を契機として万年の広布を期された」と塩田義遜は述べている(『日蓮聖人の生涯』一七〇頁)。
「本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ」(『光日房御書』一一五五頁)
即ち古聖賢の例に習って身延入山をなされたが、これはいわゆる「真に用ひられざるを識ったが故の」絶対絶望の遁世では決してなかった。
『下山御消息』に「国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし、用ひずば山林に身を隠さんとおもひし也。又上古の本文にも、三度のいさめ用いずば去れという、本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ」(定一三三五頁)とある。
この「且く」が重要である。
即ち聖人無限の大慈悲心は決して三諫をもって終るものでなく、且らく山中に遁れて、彼(幕府)の驚悟(近く蒙古来襲という)を俟って、最後の極諫を行い、もって公場対決、邪法禁止、法華国教、を強く待望して、従来の語諫を且らく止め、山林に遁れんといわれたものである。
以上、外には国家諫暁の一方面より見た入山の聖意であるが、他方、内には著述、子弟教養、もって大法を万年に伝えんがための入山であった。
また松木本興は「三諫不容を一つの鎌倉を去られる条件となし、今までの鎌倉における言葉による諫言に一応終止符を打ち、黙々の間に、天地法界を動かしての諫暁を続けつつ、万年弘布の基礎を固めようというのが入山の聖意である」と推測する。
また田辺善知は「聖人の御入山は人を怨み、世を拗ねた遁世ではない、北条幕府の頑迷にあきれて、現在の幕府を見限っても、後には洋々たる希望が溢れている。すなはち広宣流布の理想を、これから弟子らを督して、万年の後までの計を立てねばならない。三度諌めて用いられざる故に、山林に交った、のみではない」
「妙法独り繁昌せん」(『如説修行鈔』)時を理想としての行動であった。
また中村又衛は「表面こそ三諫用いられずば、山林に退くという古則に従っているが、日蓮にとっては、身延入山は一種の旧生活から新生活に入る所謂結前起後で、隠退でも世を脱れたのでもない。是から真剣に仏の道を求め且つ行ずるための新生活の首途である」と述べている。
さて聖人は文永一一年(一二四七)四月八日は、平の左衛門に向っての第三諫を終って、突然に鎌倉を去らんと決心されたものでなかったことは、御入山翌年即ち建治元年の次の御書によって明白である。
「たすけんがために申すを此程あだまるる事なれば、ゆりて候ひし時、さどの国よりいかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども、此事をいま一度平の左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候ひき。又申しきかせ候ひし後はかまくらに有るべきならねば、足にまかせていでしほどに」(『高橋入道殿御返事』定一〇八八-九頁)
また聖人が前々から身延入山を考えられ、かつ身延に永住しようとはお考えにならなかったことは、入山直後の『富木殿御書』に「十七日このところ、いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中心中に叶て候へば、しばらくは候はんずらむ、結句は一人になりて日本国に流浪すべきみ(身)にて候」(定八〇九頁)とあるに見て明らかである。
しかし遂に最勝の地、終の栖(すみか)として身延に居を定められたのであった。
尚入山に際し、「地頭南部六郎と豫め入山の連絡があったものとは解されない」と塩田義遜は述べ、更に入山後翌月庵室造営までの間、甲斐一円を遊化せられたとの説を否定している。
さて、入山途中の情景を次のように敍している。
「五月十二日かまくらを立ちて甲斐の国へ分け入る。路次のいぶせさ、峯に登れば日月をいただくが如し。谷に入れば穴に入るが如し。河たけ(猛)くして船渡らず。大石流れて箭をつくが如し。路は狹(せば)くして縄の如し。草木しげりて路みえず」(『波木井殿御書』定一九三〇-三一頁)
この時出迎えた実長は「波木井殿に対面有りしかば大いに悦び、今生は実長が身に及ばん程は見つぎ奉るべし。後生をば聖人助け給へ」(定一九三一頁)と誓われた。
かくて聖人は実長の館に留ること七日間、五月二四日『法華取要鈔』を執筆されているが、塩田義遜は「此書の執筆からしても、地方遊化の如きはまったく勘へられない」としている。
身延西谷に造営中の草庵が六月一七日に完成したので移られ、ここに初めて安住の所を得、この日をもって入山開闢の日と定めたのである。
さて南部家の家系、所領等については、諸家に異説があって、何れに拠るべきかに迷うのである。
早川達道の『富士日興上人身延離山の研究』並びに宮崎英修『波木井南部氏事跡考』は何れも綿密な研究であるが、両者間に必ずしも同意を見ない点がある。
その他実長の子息、南部家入信等に関する夫々の意見がある。
〔草庵における起居〕『身延山史』は「人皇第九十代後宇多帝の文永一一年(一二七四)六月一七日は実に聖祖棲神の霊窟たる世界の聖地、身延山開闢の嘉辰なり(略)而して弘安五年(一二八二)九月八日御年六一歳、身延山を発足せらるる迄八年五ヶ月実に三千日の御在山なり」と述べているが、聖人は身延の景観を御入山翌年の文永一二年(四月二五日建治と改元)二月一六日、安房の新尼に与えられた『新尼御前御返事』において、身延山は大変辺鄙の地であるが、風光明媚で、閑寂の地であることを記し、その他各地の信徒が捧げる供養の礼状などに、この地の風光を披露されたのである。
聖人の身延御生活を記したものは勿論古来より多数あり、一々名を挙げ難い。
かくて聖人はひたすらに御読経、門下の教養、著述等後代万年のため、日々精進されたのであった。
翌建治元年(一二七五)には『撰時抄』を著して、法華経の後五百歳広宣流布の意を明らかにされた。
六月には遠く佐渡から阿仏房が八七歳の老の身をもって師の許に詣でたが、更に建治三年と弘安元年七月(九〇歳)との三回登山した。
建治元年一一月、日朗は後に聖人の遺命に応え、帝都開教を果たした経一丸を伴って聖人に閲した。
またこれより先、九月六日北条時宗は杜世忠ら蒙古の使者五人を斬った。
翌建治二年三月下旬富木日常は母の舎利を報じて、遙々身延に詣でて親しく聖人の回向を請い、聖人は『忘持経事』を賜うてその孝心を歓ぶ、また富木尼にも書を賜ってその孝養を賞し、病悩を慰められたのであった。
また三月一六日に、旧師道善房遷化の事が清澄より伝えられた。
一二歳以来恩愛の旧師の死を深く悲しまれて、『報恩抄』を述作され、七月二六日日向らを遣わして墓前に読ましめた。
勿論本書は五大部の一として重要な御書であったが、明治八年(一八七五)一月一〇日の身延山大火に、他の諸書と共に焼失したのは遺憾であった。
田中智学は「身延には従来多くの御遺文の御消息類があったのだが、此の火災に、のこらず焼けてしまった、惜しいことだけではすまない。
教徒は皆深く恐懼し反省して、その怠慢の罪を聖祖に謝し奉らねばならぬ」(「身延に登りて」二二頁)と歎じ誡めている。
この時焼失のために、定本遺文の目次に「曽存・身延山」と記されるに至ったものが相当数ある。
かつて筆者は土地の古老から、「本来これらの御真蹟が、常に格納されていた土蔵(西・中・東蔵)に在ったなら決して焼けるべきではなかったが、たまたま何かの都合でお倉から出して、元の所へ戻さず、一時御真骨堂(御宝蔵)の廊下に仮に保管してあったために皆失ってしまった」と聞いたことがある。
ただし先師の写本及び少々の災害を免れたもの、ないし火災後身延山に奉納された聖筆等が今日恪護されている。
さて翌建治三年六月には四条金吾が、主君江馬入道より勘気を受けたことに対して『頼基陳情』を代筆して、金吾の信仰堅持を慰問激励された。
入山の際のかりそめの僧房は四年後の建治三年には相当朽廃した状況が『庵室修復書』(定一四一一頁)に察せられる。
この年の修復もやがて再び朽ち、弘安四年一〇月には一〇間四面の堂が新たに建立、一一月二四日盛大な開堂供養を行い、聖人は初めて身延山久遠寺と命名され、この日天台大師講、延年の舞(祝いの舞)などが行われた。
「空晴れて寒からず、人の参る事、洛中鎌倉の町の申酉の時の如し。さだめて子細あるべきか」(『地引御書』定一八九五頁)とその有様を報じられている。
僧房には聖人を中心としてどの程度の人数が居住したか、御入山と同時に遣わされたる『富木殿御書』に「けかち申すばかりなし。
米一合もうらず。がししぬべし。此御房たちもみなかへして、但一人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給へ」(定八〇九頁)と歎かれている。
弘安元年一一月の池上書には「人はなき時は四十人、ある時は六十人」(定一六〇六頁)とあり、更に翌二年八月の曽谷書には「今年一百よ人の人を山中にやしなひて」(定一六六四頁)とある。
入山以来次第に人々の増加していく有様が知れる。
同時に不便な山中に、これらの人々を養うこと、また種々な人間関係の点で、聖人の心労もまた多かったことと思われる。
聖人の永年に亘る苦難を克服した健康も、御入山後次第に不調を覚えるに至ったことは弘安四年一〇月の『富城入道殿御返事』(定一八八六頁)にも同年一二月八日の『上野殿母尼御前御返事』(定一八九六頁)にも述べられている。
越えて弘安五年には愈々持病も重くなられて弟子、信者の勧めもあり、久方振りに安房を訪れ、かつ常陸の湯治を志して、九月八日身延山を御出立、同一八日池上宗仲の館に到着されたが、もはや再起は不可能であった。
聖人は入滅近きを察せられ、一〇月八日本弟子六(六上足)を定め、滅後弘教について様々の御遺誡をされて、一三日辰の刻(午前八時)に、六一歳忍難弘通の生涯を終えられた。
翌一四日午後八時入棺、一二時葬送荼毘の儀を行い、遺物を配分し、二一日遺骨を奉じて池上を出立、二五日身延に入り、一二月二日、四十九日忌を期して葬儀を虔修し、草庵北側の山丘に葬った。
〔入滅以後の身延山〕かくて葬送の翌弘安六年正月六老僧身延に会し、一ヶ月交代に大聖人の御墓の護持、即ち守塔輪番のことが定められた。
『身延山史』は「此の輪次守塔の月順番に諸説異同あり、今其孰れに拠るべきか、甚だ迷はざるを得ざるも、日興上人筆、池上所蔵の輪番帳を以て稍々正鵠なるものと信じて今は之を採用す」という。
聖人の直弟には六老僧の外に、中老僧と呼ばれる人々がある。
一二人とも一八人とも諸説あるが、輪番帳に載せられた一二人とするのが妥当のようである。
月番制が定まると六老僧は夫々山内に草庵を構え、日昭=南之坊不軽院(西谷)、日朗=竹之坊正法院(中谷)、日興=林蔵坊常在院(西谷)、日向=樋沢坊安立院(西谷)、日頂=山本坊本国院(中谷)、日持=窪之坊本応院(東谷)に居住したと伝える。
なお中老僧諸師がどこに住まったかは、『身延山房跡録』にも古記にも明らかでない。
思うに六老僧の草庵にしても、身延に常住したものではなく、各地の布教に従い、輪番の月に登山して務めを果し、終れば布教に出られたものであろう。
このように聖人滅後の身延山の経営、並に宗門の発展は六老僧の協力であったが、輪次守塔のことは、各々地方弘道のため、または遠隔の地にあって交通不便の当時、実行困難となったためか、自然と甲駿の間に縁故の深い日興が、その門弟と共に身延山に在住し、墓守りが委ねられる結果となった。
正応元年(一二八八)聖人の第七回忌の時、地頭南部実長が藻原の日向を推して身延の別当としたので、日興は身延を去って富士山の南麓に一門家を立てた。
かくして一味の法水はその流れを分けて、日興の側では自身門家を富士方といい、日昭・日朗らの五人を鎌倉方と呼ぶようになった。
日興の身延離山について、早川達道は「之を要するに興師の離山は、輪番制の廃止に依るものではなく、対五上足(昭、朗、向、頂、持)の学的異解、葛藤に由るものでもなく、只興師と波木井氏および日向師との間の得意(理解)修行の異解より、遂に離山に至ったと見るべきである」と述べている。
かくして「守塔輪番制」は廃止され、日向が別当(住職)となり第二祖となった。
二二年間の在位の後、上総茂原法華谷に隠棲し正和三年(一三一四)九月三日、六三歳をもって遷化。日向のあとを中老僧の日進三世を継ぎ、四世日善、五世日台、六世日院、七世日叡、八世日億、九世日学と次第する。
このうち日台より日学までの五師は波木井家の出身と伝える。
この時代は御廟所を中心として、山内に坊舎が点在していたが、次第に諸国より参詣者も多くなって、堂宇の挾隘を感ずるようになったので寛正二年(一四六一)行学院日朝一一世の法灯を継ぐや、鋭意計画を練り、文明七年(一四七五)現在地に堂塔を営み久遠寺伽藍建立の基をきずき、更に学問の奨励、諸制度並びに法式等を制定し、全ての方向を組織立てたが、このことは身延山のみならず、宗門全般上からも、その顕著な法功は特筆すべきものである。
更に次の一二世日意、一三世日伝は共に日朝の弟子で、三師一致協力して山勢発展に尽力したので、「身延中興三師」と称されているが、三師の在位年数の合計は、実に八五年の長きに及んだ。
第一四世日鏡より第一七世日新に至る四代四八年間、宗門は幾多の災厄に見舞われたが、幸い身延山は山勢逐次発展し、特に武田氏、徳川家の外護を受けて、堂宇の新築など行われ、中でも日鏡は弘治二年(一五五六)西谷に善学院を創立し、所化を集めて学を講じ、西谷檀林の基礎を開いた。
信玄寄進の内左記は現在も久遠寺に格護されている。
妙経(一部七巻)=これは明本で、明の七世景帝の景泰二年(一四五一)の刊本で、わが国の宝徳三年に当る。
各巻の終りに左の自署がある。
寄進甲斐身延山久遠寺
従四位下武田大膳大夫兼信濃守源晴信判
天文十九庚戌十一月念(廿)四日
武田家滅亡の後、徳川家と身延山との関係を見るに、家康と本宗とは一般的に好誼なものではなかったが、独り身延山には好感を有した如くであった。
即ち善学院日鏡が家康のために武運長久の祈願を行って結縁したが、天正一〇年(一五八二)より一八年に至る間、甲州を領した関係上家康は、天正一六年甲斐巡見の途中身延山に参詣し、他日の外護を約した。
この時の約束によって、天正一九年谷中瑞輪寺を創建寄進したという。
徳川時代に入って、幕府は各宗本山に命じて山規、寺法等を制定させ、その権威を認めると同時に秩序の維持に力を注いだ。
やがて第二一世日乾・二二世日遠が入山したが、両師は師範の日重を二〇世に推戴し、内外の充実を図ると共に、紀州・水戸両家を始め前田、松山、京極、三浦等諸大名の外護を受けて、堂塔は輪奐の美を極めた。
重・乾・遠三師は学識深く高徳にして、育英に、また伝道に活躍。
徳川開幕期に際して宗風宣揚に努め、その法功多大であって、第二の中興三師として敬称さている。
日遠が慶長九年に定めた「町中掟」は門前町研究の上からも興味深い布達である。
これによると身延町民が大坊(本院)の支配下にあったことが明らかで、当時の住民の日常生活の一面を推知することができる。
これより先文禄、慶長年間に豊臣秀吉の姉、瑞竜院殿及び浅野忠吉によって本堂、大方丈、唐門が寄進された。
更に日乾・日遠二師より十数代に亘っては祖山発展の時代ともいうことができ、多数の名門夫人が丹精を尽した。
五重塔及び思親閣の祖師堂は前田家壽福院、本院の洪鐘は養珠院、時鐘は久松家養仙院よりそれぞれ寄進され、その他菩提梯・三門・丈六堂・一切経蔵・千体仏・浴殿・総門等の主要建造物が引続き完成し、全国有数の大寺院となった。
延宝七年(一六七九)三一世日脱が入山し、次いで日省、日亨と続いたが、この三師は重・乾・遠以後の身延山中興の師として、身延山の全盛期を開花せしめた。
日脱は元禄六年上洛参内して、東山天皇より紫衣着用の免許を得た。
このように徳川中期のころにあっては身延山は実に大法都たる姿を現出したが、不幸にして徳川末期より明治初期にかけて度々不慮の災禍に遇い、伽藍の雄なるものは悉く灰燼に帰した。
特に明治八年一月の火災は身延山災禍の内最大のものであった。
明治初年、内外多端の間に身延山に在っては日薩・日鑑・日修三師が猊座に就き、一山大衆と共に諸堂宇の再建に力をつくし、往古に倍する荘厳美を加えるに至った。
三師を明治維新期宗門中興の三師と崇敬するもまた故ある哉である。
聖人在世時代身延山は南部家より寄進されて、全山身延山の所有地となっていたが、明治維新に至り殆どが御料地として上地された。
しかし歴代住職始め門末一統の非常なる努力の結果、大正八年七九世日慈の代に至り、山林払下げが実現し旧に復した。
大正一一年一〇月聖人に対し、「立正大師」号が宣下され、昭和六年第六五〇遠忌の一〇月御入滅正当に「立正」の勅額が祖廟に下賜され八二世日帰は参内拝受した。
御遠忌記念事業仏殿納牌堂は見事に完成し、偉容を加え当山有数の大伽藍となった。
昭和七年三月、望月日謙八三世の猊座に晋み、祖廟聖域の整備を行い、一四年宗立信行道場が西谷に竣工し、同一六年三月、三派合同が実現し、現在の日蓮宗が生れた。
同年祖山学院は文部省令に則り、祖山中学、身延山専門学校と夫々昇格し、多年の希望が実現した。
一八年九月日謙が遷化し、同一〇月深見日円八四世に就任。
終戦前後の多事多難の間よく困難を忍び、老躯を顧ず、布教・興学に尽瘁その功をあげた。
昭和二四年、清澄山が本宗に改宗し、同二七年立教開宗七〇〇年慶讃行事が全宗門挙げて奉行され、身延山においても幾多の事業、行事を実施したが、とりわけ『昭和定本日蓮聖人遺文』四巻の刊行は特筆すべき記念事業であった。
昭和三二年に深見日円が八九歳をもって遷化し、同月増田日遠が八五世の法灯を継承したが、病のため中途退山。藤井日静が三四年七月八六世に晋み、入山以来内外の改革と刷新に努め、財政の確立を図り、戦後の混乱を見事に克服し、身延山短期大学校舎を始め、山内各般の工事を実施した。
以上の諸工事は昭和四六年の聖誕七五〇年、同四八年の身延入山七〇〇年の記念事業として行われたものであった。
昭和四六年一二月藤井法主が九三歳をもって遷化し、翌四七年一月、総務望月日雄が八七世を継承した。
同師は八三世日謙の法嗣で、先代日静とは兄弟弟子であった。
就任以来ひたすら宗風宣揚、祖道興隆、山勢伸展のために専念し、身延山の在職永くよく宗門緇素の信頼を受けられたが、四九年四月二〇日遷化、寿七八歳であった。
次いで望月日滋が柴又題経寺より第八八世を継ぎ、間もなく管長に推されて宗門を統括。身延山宝物収蔵庫の完成外諸工事を実施し、もって聖人第七〇〇遠忌の報恩行とした。
〈備考〉宗祖の身延御在山生活に関する論述は、古来多数刊行されている。
今ここに近時の数編を掲げる。
《松木本興『身延の御祖師さま』『みのぶ』昭和二二年三月-三三年八月、『松木本興先生余香』、塩田義遜『日蓮聖人の生涯』、『身延町誌』、上田本昌「身延山に於ける日蓮聖人」『棲神』四七-五〇号、中村錬敬『日蓮聖人と諸人供養』、『身延山史』、『身延の枝折』、『身延山秘宝展・記録』、影山堯雄『日蓮教団史概説』、日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、『日蓮辞典』「久遠寺(身延山)」の項、『日蓮聖人事蹟事典』(雄山閣)「山梨」の項》
(林是幹)