妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

本弟子

ほんでし #3408

本弟子

ほんでし

日蓮聖人は弘安五年(一二八二)九月八日、九ヵ年の間住みなれた身延山を下り同月一八日千束池上につき、池上宗仲の館に入られたが、ここを臨終の地と定め、翌月一〇月八日本弟子六人を定めて滅後の法灯とし団の運営、門下の育成を委ねられたのである。
日興が執筆した『宗祖御遷化記録』に「十月八日本弟子六人を定め置かる、此状六人面々に帯すべし云々日興一筆也」とある。
その「定」の文は、

    一弟子六人  不次第
 一 蓮華阿闍梨日持
 一 伊與公  日頂
 一 佐渡公  日向
 一 白蓮阿闍梨日興
 一 大阿闍梨日朗
 一 弁阿闍梨 日昭

 右六人者本弟子也、仍て向後の為定むる所件の如し、  弘安五年十月八日

と認められている。
ここに冒頭の一行「一弟子六人」とあるのは「一ツ 弟子六人」と読むのではなく「一弟子」と読み、次行の列名は「一ツ蓮華阿闍梨日持、一ツ伊與公日頂」等と読むのであって『御遷化記録』の正本の字くばりは明瞭に区別して書かれている。
「一弟子」とは第一級の高弟という意味で、この表現の例をあげれば、聖人法然上人の弟子をあげてこれを説明するに、
  ┌─一弟子 隆寛―多念
源空┼―一弟子 恵―小坂
  ├―一弟子 聖光―筑紫
  ├―法蓮
  ├―覚明
  └―聖心 
(定二三〇九頁)

と示されている。
本書は聖人御自筆『浄土九品之事』(西山本門寺蔵)に述べられたものであるが、有名な多念義の祖長楽寺隆寛律師西山派の祖小坂の善恵房、鎮西派の祖筑紫の聖光房が一弟子であり、法蓮・覚明・聖心等と区別されている。
また日興は聖人の六人選定の佳例にならって六人の高弟を定めたが、その『本尊分与帳』によれば「甲斐国蓮花寺の住僧寂日房は日興第一の弟子たるによって申与うる所件の如し」といい卿公日目、下野公日秀、少輔公日禅、摂津公日仙、了性房日乗以上の計六名をもって「此六人者日興第一弟子也」とし、また俗弟子として南条時光、高橋六郎兵衛入道、由比甚五郎、石河新兵衛、河合光、新田信綱の六人をあげて「日興第一弟子」と定めている。
これらによって明らかなように一弟子とは第一の弟子・長老で、聖人はこれを「本弟子」とされたのである。
ち「一弟子」とは「本弟子」と同様である。
また「定」には「不次第」とあるが、諸師の年齢を見るとこのとき日持は三三歳、日頂は三一歳、日向は三〇歳、日興は三七歳、日朗は三八歳、日昭は六二歳で、年齢的には不次第であるが、その記載の順は入門・法臈の年次第をふんでいる。
それゆえ、不次第とは年齢、法臈に関するものでなく、一弟子・本弟子として門の法灯・依師として仰がれるものであるから差別を存すべきでないというところから「不次第」と記せしめられたものであろう。
この本弟子はのちに「六老僧」と呼ばれるが、この長老たちは日興の『美作房御返』や南部実長の『与はわきどのへ書』等によれば早くから老僧と呼ばれている。
これらの諸師が「六老僧」と呼ばれるようになった期については宗門上古の史料には見えぬが南北朝の末ごろにはこの語が見える。
妙満寺派祖日什の高弟である智蔵日運の著『門徒古事』(また『日運記』とも)には「六臈僧」「六老僧」とあり、日運入寂の応永三二年(一四二五)には一九歳で頭角を現し活躍している久遠成院日親の『伝燈抄』には「六老僧」としるしており、この語は既に定着しているようである。
《『日蓮団全史』上、『宗全』一巻・二巻、『遺文辞典』歴史篇「六老僧」「日昭」「日朗」「日興(にっこう)」「日向(にこう)」「日頂」「日持」の項、『日興門流上代事典』「本弟子六人(六老僧)」の項

← 事典トップ