御遷化記録
御遷化記録
ごせんげきろく
日興が弘安五年(一二八二)一〇月一六日に日蓮聖人の示寂前後の事の次第を書きとどめたもの。
聖人の葬送の次第を記録したものには他に日位による「大聖人御葬送日記」がある。
正本は西山本門寺蔵。
『宗全』二巻「興尊全集」等に収録される。
その内容はまず、伊豆流罪・佐渡流罪・身延入山・池上入御を記したのち、
十月八日本弟子六人被定置此状六人面面可帯云云日興一筆也
定
一弟子六人事不次第
一蓮華阿闍梨 日持
一伊與公 日頂
一佐渡公 日向
一白蓮阿闍梨 日興
一大国阿闍梨 日朗
一弁阿闍梨 日昭
右六人者本弟子也仍為向後所定如件
弘安五年十月八日
とある。
この「一弟子六人事」の「一弟子」というのは第一級の弟子長老という意味で、本弟子と同義語である。
また続いて「不次第」とあるが、このとき日持は三三歳、日頂は三一歳、日向は三〇歳、日興は三七歳、日朗は三八歳、日昭は六二歳であるから年令的には不次第である。
しかし入門の次第、法臈の順序からいえば入門の浅いものから年序を経て記され次第をふんでいる。
そこでこの「不次第」というのは年齢・法臈に関するものでなく、本弟子に任じ、一弟子と定められたからには門下の依師・法灯と仰がれる身であるから、これらの人々を区別すべきでない、とするところからかく記されたものであろう。
このように日蓮聖人は示寂に先だつ一〇月八日に本弟子六人を定めて滅後の法灯とし、日興の執筆にかかるこの本弟子の定書を、六人はそれぞれが一紙ずつ所持したのである。
次いで、一〇月一三日辰の時(午前八時ごろ)聖人が遷化し、同一四日戌の時(午後八時ごろ)日昭・日朗の手によって入棺の儀がなされ、子の時(午後一二時ごろ)葬送の式が営まれた旨が記され、その葬送の次第が次のようにされている。
先火 二郎三郎鎌倉ノ住人
次大宝華 四郎次郎駿河国富士上野ノ住人
次幡 左 四條左衛門尉
右 衛門太夫
次香 富木五郎入道
次鐘 太田左衛門入道
次散華 南條七郎次郎
次御経 大学亮
次文机 富田四郎太郎
次佛 大学三郎
次御はきもの 源内三郎御所御中間
次御棺 御輿也
左
侍従公
治部公
下野公
蓮華闍
前陣 大国阿闍梨
右
出羽公
和泉公
但馬公
卿 公
左
信乃公
伊賀公
攝津公
白蓮阿闍梨
後陣 辨阿闍梨
右
丹波公
太夫公
筑前公
帥 公
次天蓋 太田三郎左衛門尉
次御大刀 兵衛志
次御腹巻 椎地四郎
次御馬 亀王童
滝王童
葬儀はこのような次第によって厳粛に行われたのである。
最後に釈迦立像仏と註法華経とについて「仏者釈迦立像墓所傍可立置云云 経者私集最要文名註法華経同籠置墓所寺 六人香花当番時可被見之 自余聖教非沙汰之限云云」との遺言が記されて、この記録は終っている。
なお「註法華経同籠置墓所寺」の記述について『興尊全集』『富士宗学要集』史料類聚その他諸書はみな「墓所傍」としているがこれは誤読で、西山本門寺の正本には明白に「墓所寺」とある。
《『図説日蓮聖人と法華の至宝』二巻「真蹟遺文」、『日蓮辞典』「御遷化記録」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人の葬送」の項》
図版