治部公
治部公
じぶこう
(一二五七-一三一八)
治部房とも。日位のこと。
少輔阿闍梨とも称し、字は承賢といわれる。
出生年代、素姓とも詳らかでない。
初め天台宗に出家、四十九院(岩淵の北方)の住僧であったが、弘安元年(一二七八)日持の弟子となり次いで聖人に直参した。
日持・日興らと共に四十九院の厳誉と争い、正法弘通の意気に燃えた。
聖人御葬送に列し輪番勤役を執ったが、日興身延離山前後に師日持と共に日興の下から離れた。
後に駿河(静岡市)を中心に教線拡張に努めた。
即ち村松海長寺を天台宗から改宗させ、ここを弟子日賢にゆずり、晩年池田に本覚寺を創建した。
なお日位の祖母(盂蘭盆御書等に治部殿うばごぜんとある)は、聖人の熱心な信者である。
中之郷等覚寺はこの祖母の屋敷跡だと伝えられている。
日蓮聖人からの書状『治部房御返事』を伝える。
真蹟不現存で写本「本満寺本」所収。
弘安四年八月二二日状。
中に「駿河国賀島荘は殊に目前に身にあたらせ給て覚へさせ給い候らん」(定一八八二頁)とあるのは、治部房が熱原法難と深く関係したことを告げていよう。
その実情は史料の不足によってたどり難いが、法難が解決し釈放された信徒一七名は日興らと駿河富士・賀島の地に帰国した。
安堵のおもいをこめて法難突破を賞揚した南条時光宛て状が弘安二年一一月六日付『上野殿御返事』(別称「龍門書」)であるが、この状と本文全同で充所を「治部殿御返事」とし、「日蓮(花押)」の署判は日蓮聖人自筆の状『治部殿御返事』が京都本圀寺に現存する(稲田海素『日蓮聖人御遺文対照記』『縮刷遺文』一九一六頁の稲田付記)。
本文筆写は日興である。
即ち、法難の当事者日興は鎌倉における裁判闘争に勝利して帰国し、ただちに身延に登山して事の顛末を師に報告した。
日蓮聖人は時光宛て讃辞激励の手紙を同じく法難に苦闘した治部房にも与えるべく、近侍の日興に複写を指示し署判を加えた。
現存『治部殿御返事』がこれである(『定本遺文』未収)。
この事実は、熱原法難に対処して活動した治部房のその働きがたいへん大きなものであったことを告げるものである。
なお、日位の筆作に聖人葬送の記録『大聖人御葬送日記』があり、葬送に列した日位の記録であるから、日興の記録とともにたいへん貴重である。
《『遺文辞典』歴史篇「治部殿(じぶどの)」の項、『日蓮辞典』「治部房」の項》