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南条時光

なんじょうときみつ #973

南条時光

なんじょうときみつ

(一二五九-一三三二)
南条兵衛七郎の次男であり、父と共に日蓮聖人の有力な檀越であった。
駿河富士郡(現・富士宮市)上方上野郷に住み「上野殿」とも称された。
父の七郎が早く世を去ったので、若くして督を継ぎ、性格はやや四条金吾に似ていたとも伝えられている。
七郎次郎光といい、文永の末頃には青年武士として立派に成人していたようである。
南条親子及び妻子に与えられた聖人御書の中で、最も数の多いのが、この光宛のものであったようである。
父の亡きあと身延の草庵へしばしば御供養の品々を贈り、追善の志厚く、熱烈な法華信仰の念に燃えた。
文永二年(一二六五)頃に父を失ったはまだ幼少の身であったが、同一一年の『上野殿御返』によれば「故親父は武士なりしかども、あながちに法華経を尊み給ひしかば、臨終正念なりけるよしうけ給はりき。其親の跡をつがせ給ひて、又此経を御信用あれば、故聖霊いかに草のかげにても喜びおぼすらん。あわれいき(活)てをはさば、いかにうれしかるべき」(定八三六頁)。と記されている通り、この頃はすでに亡き父親のあとを受け継いでいたことがわかると同時に、法華経を厚く信仰していたこともわかる。
また建治元年(一二七五)五月の『上野殿御返』によれば、農の多忙な時期であり大宮の造営中で人手の尊い時に、わざわざ身延へご供養の品を届けてくれたことは偏に亡き父を思う一念からの現れであって、養の志の深いことの現れであると記されている。
弘安二年(一二七九)の熱原法難の際には日興の弟子である日秀の教化をうけた熱原の神主たちを聖人の指示によってかくまったこともあった。
同五年に大病にかかったが、聖人の祈願によって一命を保つことができた。
かくして聖人の滅後も日興を招いて富士の大石ケ原に大石寺を建立した。
正応三年(一二九〇)一〇月と伝えている。
更に重須に本門寺を建立する施主となり日興門流にとっても重要な人物となった。
光の館跡は現在、上野妙蓮寺となっている。
元弘二年(一三三二)五月一日に没したと伝えられている。
法名は大行。
なお大石寺を継承した日目は光の甥に当り、日道・日行らは外孫に当る。
また内孫の日伝は安房保田の妙本寺を受け継いでいる。
更に光の譲状によれば伊豆・駿河・相模・丹波の各方面に所領が散在していたことがわかる。
立正大学日蓮教学研究所『日蓮教団全史』上、『日蓮聖人御遺文講義』一四巻、『遺文辞典』歴史篇「南条」の項、『日蓮辞典』「南条氏」の項、『昭和新修』別巻「南条七郎五郎時光 附南条殿母尼・七郎・五郎」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と四大檀越」の項、『日興門流上代事典』「南条時光」の項

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