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立正大学

りっしょうだいがく #4377

立正大学

りっしょうだいがく

日蓮門下の法器を養成する役割を担った大学。
立正大学が現在の東京都品川区の谷山ケ丘(ややまがおか)に居を占めたのは明治三七年(一九〇四)四月一日であって、この日、専門学校令によって「日蓮宗大学林」と公称し、開校式を挙行した(『大崎学報』一)。
しかし大学の発祥の渕源に遡れば、その創立は正元年(一五七三)に求めることができる。
この年は要行日統によって千葉県香取市に飯高檀林の前身である飯塚談所が開設された年である。
伝え聞いた同学の蔵日生は京都より来援し、飯高の郷主平山刑部の寄進によって飯高に檀林を開いたのが天正七年、日生は檀林の後事を京都から参加した蓮成日尊に託して帰京し、翌八年には洛北松ケ崎にも檀林を開いた。
以後漸次増加して関東に八檀林、関西に六檀林を見るに至ったが、飯高・松ケ崎の両檀林を関東・関西の両根本檀林と称する。
中でも関東の飯高と中村の二檀林は最も繁栄し、青年僧侶の仏教・日蓮学の研究機関としての規模も大きく、飯高檀林の如きは春秋二期の各一〇〇日間の開講中は学徒七〇〇を有し(向城庵記憶帳)、諸檀林は長い江戸時代のあいだ行学両面にわたって上下の人心を指導する幾多の人材を世に送って、社会の浄化・団の昂揚の原動力となった。

明治初年は政府は偏えに神道を重んじ、神道を教として政教一致の実を挙げようとして、教を疎外したが、やがて方針を変更して教徒の要望を認容し、明治五年四月、神合併大教院を東京麹町に設け、各宗みな宗務局を大教院所在地に置くように指導したので、本宗もここで政務を執ることになったが、宗門はこのとき将来を洞察して諸宗に先んじて「宗教院」なる育機関を東京芝二本榎の承寺に創設した。
ときに同年八月二二日。
師には玉沢妙法華寺日暉・目白蓮華寺日欽らが参加し、新居日薩は中等学助として勤務した。
学生数はおよそ三〇名、中洲耀妙・守本文静・脇田堯惇らがいた。
課書には『天台四教儀』『金錍論』『十不二門指要抄』『開目抄』『法華題目鈔』『如来秘蔵録』『草山要路』『宗門緊要集』『宗門綱格』『弘経要義』『妙経宗義鈔』等和漢の史書・四書五経および福沢諭吉の『西洋情』等が使われた。

同八年二月、神合併大教院が廃止され、各宗ごとに大教院を設置するよう発令されるや、六月、時の管長新居日薩は「日蓮宗大教院」には二本榎承教寺の宗教院をあてることに確定し、ここを本部として宗政・教育を司ることにし、また全国寺院を九区に分け、地方の八区にはそれぞれ「中院」を置いた。
ところが地方区の所轄は広範のため、中院一ヵ所では不足となり、各県下に「宗学所」を新設して一人の不就学僧侶もなからしめようと努めた。
この大院制は学制二五条・学則二一条・入校規則一〇条・退校規則五条からなり、学則の六・七両条によると、全学年を九年とし、上等学科三年、中等学科三年、下等学科三年に分け、定期試験は年四回、六回を経てなお不合格の者は退校、従って住職資格も与えられなかったという(『明治仏教史上における新居日薩』)。

明治一七年九月、太政官第一九号の達に基づき大会議を開いて全学区を一二区とし、大教院を「大檀林」、中教院を「檀林」、小教院を「宗学林」と改称し、また「大檀支林」を東京池上・第三区身延山・第五区京都に新設した。
同二八年六月、再び大会議を開いて宗規宗則を改正して教育方針を世間普通に準じ、日蓮宗檀林の修行年限を三年と定め、また全国を三大学区として各区に一つの「中檀林」(大檀支林を改称)を置き、一二教区に各一つ「小檀林」を設立して同三七年に至る。
年限は小檀林が四年、中檀林が五年、大檀林が三年であった。
(明治二九年六月二八日発行の「日宗新報」)。
同三五年三月八日、日蓮宗大学林出身者の雙榎同窓会の発会式のときの報告(雙榎学報)によると、明治五年以来の卒生は五〇〇有余名に達したという。

同三六年六月九日より一週の第二臨宗会において小檀林を全廃し、三中檀林・一大檀林を合併して一大学林となし、大学林内に中等科・大学予科・大学本科・研究院の四種を設け、修学年限を中等科五年五学級、予科二年二学級、本科四年四学級、研究科三年となす案が議決された。
脇田堯惇・本海解・酒井日慎らが大学林設立実行委員に選ばれ、八月に大崎谷山ケ丘に「日蓮宗大学林」の新校舎が完成、翌年四月一日開校式、四日―九日入学試、一三日に入学者一四二名が決定した。
開設科目を一瞥すると、宗乗・台乗・人文社会・外語にわたり、宗乗については専門科・高等科では本間海解・清水龍山、中等科では風間渕静・稲田海素が担当した。
大学林長は小林日董、『大崎学報』は三七年一二月末日に創刊され、今日に及んでいる。

明治三八年七月、小林大学林長は遷化し、その後を本海解が林長務取扱として引継いだが、四〇年五月、小泉日慈が正式に第二代林長に就任した。
この年四月一日から日蓮宗大学林を「日蓮宗大学」と改称する件が文部大臣より認可され、同時に学則を変更して中等科五年、大学科を予科二年、本科四年とし、別に予修科一年を置いて、宗乗大意・台乗大意を学ばせ、世間の官公立中学校卒業者にして本大学予科に入学を志望する者に中等科の典を専修させることにした。
このの講義一覧によると、宗乗には本間海解・富田海音・後藤照清水龍山の名が見え、島地大等は史を担当している。
ところが翌四一年三月、本海解頭は遷化し、後任に風随学が任命された。
四二年六月一日付で宗会は大学図書館設立を議決し、それに関する寄付行為が発表され、漸次本学は大学としての地歩を固めて行った。

明治四三年の大学科卒者は七名、中に望月歓厚・西村慈珖・遠藤是妙・浅井要麟の名が見える。
四名は直ちに研究院に入学し、また望月・西村は中学科助、遠藤は寮長、浅井は大崎学報編輯に任命された。
この年五月末日をもって小泉学長は辞任して脇田堯惇が第三代学長になったが、翌年四月辞任、風頭が学長務取扱として空白を埋め、四五年六月一日付で久保田日遙が第四代学長に就任して大正三年(一九一四)四月十一日まで勤続。
同月一六日付で再び風随学頭が学長務取扱として空白を埋め、同年一〇月一日付で杉田日布が第五代学長に就任し、新たに学監を置くことになり、武田宣明がこれに当った。

しかるに大正五年三月八日午後八半頃、中学室本館南側より出火、室一棟・会計室・書記室・柔道場を除いて合計九棟・約八五〇坪が焼失して同一〇時半鎮火するという件がおきた。
学校当局は直ちに対処して、翌九日学生生徒を運動場に集めて、本日より三日間臨時休講とし、寄宿舎を芝二本榎承教寺に移転、大学科・予修科は宗務院において、中等科は残存室において学年末試を行う旨を通知した。
学生生徒数は三二〇名、塩田義遜はこの年三月の卒業、鈴木一成は七月の卒である。
この件の責を負って杉田学長は三月三一日付をもって辞任し、風随学が第六代学長に就任した。
仮校舎は四月一四日に竣工、六月二五日仮図書館上棟。
その、四月に臨宗会が開かれ、大学を大崎谷山ケ丘から市川真間、都下高井戸等に移転する案が提出されたが、大学側学生員等の猛反対により元地に再建することになったのである。
かくて大正六年九月十一日、新築室落成し、一〇月には講堂・寄宿舎の起工式があり、翌七年六月一日に落成したので、九日には落慶式を挙行、併せて故本間海解頭を第三代学長に推す追薦式、風間現学長の育功労表彰式、滝村・境野・賀来・加藤・高田五師の勤続一五年謝恩式が行われた。
それにより歴代学長の順は一代ずつずれて脇田堯惇が第四代、久保田日遙が第五代、杉田日布が第六代、風随学が第七代となる。

大正七年一二月六日大学令が公布されたので、それに準拠した大学設立の準備に着手、翌八年五月二七日財団法人日蓮宗大学の設立認可があり、風間随学学長・佐野貫孝・望月日謙学監らが理事に就任、これら首脳のもとで大学科を大学令によるものとすべきことが議せられ、九年三月、第一三宗会にその承認案を提出し、四月に学則を大幅に訂正して大学科を大学部、中等科を中学部と改称し、また大正五年に予科の年限を一年に短縮していたのを改めて、再び二年として高等学校高等科の課程にならうようにし、また新たに選科生・聴生の規定を設けた。

しかしながら充実した大学を建設するための道は遠い。
規則の改正のみならず、堂々とした堂・校舎・寄宿舎等をも設営しなければならない。
そこで同年五月には松森宗務総監の発起によって第一三回宗会の協賛を得たところの日蓮宗大学基金一百万人会(日蓮宗法規に会則ある一〇〇万円を募集して大学の運営の円滑を計ることを目的とし、一口一円とす)の設立が認可され、この宗門全体を挙げての援助金によって本学は更に一段の飛躍を遂げることになったのである。
ち大正十一年一二月には旧来の谷山ケ丘の敷地の西隣りに一五〇〇万坪を購入して大学校舎建設敷地にあて、翌一二年三月に開かれた第一六宗会において大学部を大学令に依らしめることの準備案が承認され、直ちに僊石政太郎技師に大学校舎および図書館の設計を委嘱、七月九日にその起工式を挙行した。
このの代表者は財団法人日蓮宗大学理長風間随学および一百万人会理長岡田篤の両人で、学監冷泉要惇、中学部頭馬田行啓が主として監督に当った。
こうして建築計画は着々として進行、その九月一日に関東大震災があったが、大学は幸いにも罹災を免れ、翌一三年四月一日、近代式鉄筋コンクリート三階建、六五〇坪の校舎(現在の二号館)がほぼ竣工した。
従来の校舎は中学校舎として使用した。
更に五月一七日付の東学八七号をもって大学令による「立正大学」の設立が認可され、また同日付で立正大学学則も認可された。
ち研究科、文学部・予科をもって構成し、文学部を宗教学・哲学・社会学・史学・文学の五学科に分ち、修年限を研究科・文学部は三年以上、予科三年とした。
立正大学長には風間随学、文学部長には清水龍山、予科部長には馬田行啓が就任して新発足の大学を運営することになった。
学生数も以前は五〇〇名位であったのが一五〇〇名に増員され、卒生も宗門のみならず、広く社会の各方面に進出するようになった。

翌大正一四年一月二八日、従来の日蓮宗大学を四月から「立正大学専門部」と改称し、学則を改正する件が認可され、宗教語漢文・歴史地の三科を置き、修行年限を三ヵ年とした。
これが立正大学専門部の誕生である。
ただし翌年二月、語漢文科と歴史地科を併せて高等師範科と改称す。
また同年四月二六日付文部省告示二三五号をもって、立正大学文学部卒業生に対して修身・語・漢文・歴史・英語、予科修了生の中の成積優秀なる者に対して英語の各中等員の資格を付与することになった。

大正一五年二月一六日には鉄筋コンクリート三階建(書庫五階建)一五〇坪の図書館が落成した。
開館は四月二一日、図書館長には守屋貫が就任した。

昭和三年(一九二八)六月一五日、創立第二五周年記念・昇格五周年記念祝賀式を挙行し、併せて、境野正の二五年勤続、馬田行啓・望月歓厚・岡本畯の一五年以上勤続に対する表彰が行われた。
昭和四年は五月一〇日、馬田行啓予科部長が辞任して高田恵忍が後任に就き、五月二八日、風間随学学長が辞任して清水龍山が第八代学長に就任、学部長を兼任(第二代)した。
しかし清水氏は翌年七月三日に学長兼学部長を辞任し、望月日謙が学長務取扱並びに専門部長に就任、学部長の後任には守屋貫教が八月一五日に図書館長を辞任して、第三代学部長に就任、同日、高田恵忍の予科部長辞任に伴い、これをも兼任した。
守屋氏の辞任に伴う図書館長の席は木村龍寛(日紀)の就任によって埋めた。
学長務取扱として就任した望月日謙が第九代学長に就任したのは昭和六年二月二四日であった。
同年四月一日、守屋学部長は兼任の予科部長を辞任し、望月歓厚が就任、木村龍寛は図書館長を辞して専門部学務主任に就任、図書館長には布施浩岳が就任した。

同年七月、大学校舎・堂の修繕および学生控所の新築を起工し、修繕は九月、新築は一〇月に竣工、七年七月、柔剣道場の新築を起工し、一〇月竣工して、大学は面目を一新した。
この年の九月五日、関本龍門第一〇代学長に就任。

昭和八年一〇月六日には創立三〇周年記念祝賀会を挙行。
併せて創立功労者である酒井日慎・及川真能・柴田一能・佐野貫・吉田日照の五氏に対し功労表彰式を行い、また大堂には歴代学長の写真を掲揚することにした。
昭和一〇年四月一日「風学寮」が新築落成、中央に豪華な礼拝堂を備えて、良好な環境の下に人格を陶冶するにふさわしい設備として内外に好評を博した。
同年九月、関本学長辞任、清水龍山が再任して第十一代学長となる。

昭和十一年二月二三日夜、立正中学校々舎の一部から出火して同校舎・大堂を全焼。
ために立正中学および立正商学校は大学校舎にて授を継続し、六月から芝高輪台町の仮校舎に移転した。
この不規則な状態は翌一二年に中学新校舎が完成するまで継続された。

昭和一二年五月一日、守屋貫は学部長・図書館長を辞任、望月歓厚が予科部長を辞任して第四代学部長に就任した。
予科部長には久保田正文が就任、図書館長には石川海典が就任した。
同年七月七日、日華変起る。
越えて昭和一六年三月二五日、清水龍山学長は辞任し、守屋貫が第一二代学長に就任した。
また同年四月一日には望月歓厚が学部長を、久保田正文が予科部長を、石川海典が図書館長を辞任し、浅井要麟が第五代学部長、布施浩岳が予科部長、小林是恭が図書館長に就任した。
しかし九月一日付をもって小林是恭と木村日紀とが交替し、小林氏は専門部学務主任、木村氏は図書館長になった。
一二月八日、第二次世界大戦に突入。
昭和一七年三月末の大学の職員一三三名、学生数一二五九名、卒業生総数は三二五〇名である(立正大学一覧による)。

昭和一七年九月一九日、井村日咸が第一三代学長兼専門部長に就任し、翌一八年一月三〇日には浅井要麟学部長の死去により、望月歓厚が再任して第六代学部長となった。
一九年一〇月二一日、井村学長は日蓮宗管長となって学長を辞任、望月歓厚が第一四代学長兼専門部長となる。
この頃は既に戦体制が学園にもひしひしと迫り、一八年六月二五日には学徒戦動員体制確立要綱が発表され、約七〇〇名の立正全学生が横河電・赤羽兵器廠・立川飛行場等に動員された。
教育は既に昭和の初期には実施されていたが、一九年二月、軍育の全面強化の発表があり、学徒の出征も続いた。
この頃立正大学を対陣地として軍が使用するための調査が行われたが、建物が脆弱であったため接収をまぬがれた。
次いで軍需工場明電舎の兵器増産のため接収の内報をうけたが、井村学長の命をうけ大学から野村耀昌、宗務院から三谷会祥が参謀本部の親泊朝省大佐(終戦自刄)と再三折衝につとめなきを得た。
宗学研究所」(現在の日蓮教学研究所)が設置されたのは、戦争も末期の昭和二〇年五月十一日のことであった。
もって日蓮学を担う育者の意気を知るべきである。
ところが同じ五月二五日、立正大学は米軍の第二回東京襲によって完膚なきまでの被害を受け、鉄筋コンクリート三階建の大学本館・図書館・中学本館(昭和一二年竣工)の三棟を除く総てを焼失した。

戦争によって校舎を焼失し、また多くの学生職員の人的損害を蒙った学園の復興は、急速に行うことは困難であったが、除々に復旧に努めた。
その昭和二一年九月、幹部の任期満了後の再選の結果、学長兼図書館長望月歓厚、第七代学部長布施浩岳、予科長竹田智道、専門部次長石川海浄がそれぞれ再任または新任した。
翌年十一月一日に図書館長には久保田正文、予科長には浜田本悠、専門部次長には安永弁哲が就任した。
昭和二三年三月木造第一別館竣工。

昭和二四年学校育法第四条により新制大学制発足、これを契機として立正大学は第一部(昼)と第二部(夜)とを併置することとし、第一部は文学部より仏教学部を独立して、仏教学部を宗学科・教学科、文学部を哲学科・史学科・地理学科・文学科・社会学科に分科して二月二一日認可され、第二部は同年三月二五日認可された(ただ学科・哲学科は二部になし。)
に人面では、望月学長が留任、初代仏教学部長は布施浩岳、文学部長は久保田正文、第二部長は坂本幸男が就任した。
望月学長兼専門部長は同年七月二一日辞任、八月九日に幹部が改組されて第二代学部長に坂本幸男、文学部長に久保田正文、第二部長に波多野通敏、図書館長に小泉嘉章、総務部長に竹田智道、次いで新倉海北が就任、八月一三日、飯沼龍遠が第一五代学長兼専門部長に就任した。

昭和二五年三月一日、文学部に英文学科増設(一・二部とも)、経済学部設置(一・二部とも)が認可され、三月一四日、短期大学部(宗教科・社会科・商経科・すべて二部)の設置も認可された。
四月一日、沖中恒幸が初代経済学部長に就任。
六月三〇日、木造第二別館竣工。
翌二六年三月二一日、専門学校令廃止により専門部廃止。
四月一五日には学校育法第四条により大学院文学研究科(教学専攻・社会学専攻・文学専攻・史学専攻)修士課程の設置も認可された。

昭和二七年一二月一日、石橋湛山が第一六代学長に就任、役員を改選して森暁が理事長に、望月一雄が財務常務理に、斉藤栄三郎が学務常務理に、堀俊蔵が経部長に就き、全学一丸となって復興計画を推進することになった。
石橋学長代に竣工した施設については、昭和二九年三月体育館兼講堂、三一年四月第一期鉄筋校舎(現在二号館)、三四年九月第二期鉄筋校舎(現在二号館)、四〇年七月熊谷運動場一部、八月合宿寮、一〇月大崎校舎正門、十一月大崎校舎第三号館、四一年三月大崎校舎四号館、熊谷校舎一、二号館、九月学生会館(大崎)、四二年三月熊谷校舎三号館・福利厚生館・体育館・学生寮・エネルギーセンターが竣工した。
四三年四月に坂本幸男が第一七代学長に就任するが、同年四月竣工の熊谷本部棟、九月竣工の図書館(現五号館)も石橋学長代の余勢である。
次に大学制の方面としては、二八年十一月に『立正大学文学部論叢』の創刊、二九年四月一日、宗学研究所を「日蓮教学研究所」と改称、同年一〇月三〇日には創立五〇周年記念祝賀式を挙行、三一年三月には大学院の学専攻に博士課程を増設することが認可され、三二年一月二二日には石橋学長の内閣総大臣就任祝賀会が全学的に行われた。
三五年四月一日、文学部に「人文科学研究所」が設置され、初代所長に地学科の田中啓爾が就任、四〇年六月、経済学部に「産業経営研究所」を設置、四一年五月三一日には「法華文化研究所」が新設され、初代所長に坂本幸男が就任、学科の員が主たる構成員となった。
四二年三月一五日には経営学部(第一部のみ)の設置が認可された。
これで立正大学・文・経・営の四学部となり、現在に至るのである。
また三月二五日より養部が発足し、本部を熊谷校舎に置いた。
立正大学学園が埼玉県熊谷市万吉に約一三万坪の山林を求めたのは昭和四〇年で、時に小野光洋が理長であったが、養部発足と共に「キャンパス熊谷」が誕生したわけである。

石橋学長代は昭和四三年三月退職まで一五年四ヵ月にわたり、そのに大学は完全に戦災から復興したのみならず、四学部を有する文科系総合大学として面目を一新した。
職員の数も増加し、学生数も一万を超えることになった。
しかし熊谷キャンパス設置のための長期短期の巨額の負債に学園は五〇年頃まで辛吟しなければならなかった。

昭和四三年四月、学長選挙制のもとに坂本幸男が選出され、第一七代学長に就任、同に野村耀昌が第三代学部長となる。
また去る昭和四二年一二月、望月歓厚死去により日蓮教学研究所所長には坂本幸男が当っていたが、学長就任のため退職して、その後任には影山堯雄が当り、第三代日蓮教学研究所所長となった。

昭和四六年四月、学長交替があって、第一八代学長に菅谷正貫が就任し現在に至る。
翌年四月、茂田井亨が日蓮教学研究所第四代所長に就任した。
四八年二月坂本幸男死去により、同年四月、中村瑞隆が第二代法華文化研究所所長に選出され、現在に至る。

昭和四九年三月、立正大学定年規定が実施され、七〇歳を超えたものは退職することになった。
五一年四月、塚本啓祥第五代教学部長に、宮崎英修第五代日蓮教学研究所所長に就任。
歴代学長・長の次第は付録を参照のこと。
《『立正大学一覧』、野村耀昌編『立正大生活』、『立正大学寄附行為』、『日蓮宗法規』(昭和八年版)、『文学部論叢』(第五五号別冊)、『大崎学報』》(浅井円道)

【補記】
上記は昭和五六年発行『日蓮宗典』掲載の内容である。
以後、昭和五六年(一九八一)に法学部が熊谷キャンパスに新設され、立正高等学校・中学校の移設にともなう大崎キャンパス(現在は品川キャンパスと呼称変更)の拡充、改築などの変遷を経てきた。
平成二四年(二〇一二)に、開校一四〇周年を迎えている。
立正大学史編纂委員会編『立正大学の百二十年』平成四年、『立正大学の百四十年』平成二四年》

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