清水龍山
清水龍山
しみずりゅうざん
(一八七〇-一九四三)
日淵、玄宗院と号し、別に古愚・古梅(雅号)・臥龍(がりよう)と称した。
大正・昭和にかけて日蓮宗宗門随一の宗学者として活躍、五〇余年の長きにわたって宗門教育にたずさわり、本多日生(一八六七-一九三一)・田中智学(一八六一-一九三九)に伍して日蓮宗正統宗学を自負して論陣をはり、彼ら亡き後、日蓮宗思想界の柱石として近代日蓮教学の展開に大きな足跡を残した。
彼は明治三年、今の福井県今立郡国高村に清水才兵衛の次男として誕生。
幼名を才助。
幼くして父母に死別、七歳の時同県鯖江一乗庵山本智光尼に引きとられ、仏縁を結び、兄(後京都宝塔寺歴代旭日震)が仏門に入るや後を追って出家、越前市聞法寺藤岡日尊について得度した。
日尊は福井大道妙泰寺出身の上木日令(一八三五-九二)の弟子で、才助の非凡なるをみて、当時和歌山感応寺南紀学林学頭としてその名の高かった日令のもとに師事させた。
日令は字を龍妙と称し、龍山の名はこの師に因る。
龍山が日令と出会ったことが彼の宗学者としての将来を決定したといってよい。
日令は近世日蓮宗教学の大成者優陀那日輝の充洽園で学び、新居日薩らと並ぶ充洽園門下の逸材で、当時思想家としても教育者としても第一級の人物であった。
宗学者としての龍山は優陀那宗学の後継者であり、忠実なる祖述者であつて、充洽園門下が形成した近代日蓮宗の思想面をになった者と評することができる。
本多日生・田中智学と対峙したその思想的基盤は合理的かつ啓蒙的な優陀那宗学の展開を志したところにあり、日令との出会いを軽視することはできない。
一五歳の時日令に従い中山檀林に学び、次に日蓮宗大檀林、祖山学院に入り、第一回の内地留学生に選ばれ比叡山に笈を負い、天台学研鑽に没頭した(二五歳)。
彼が本格的に天台教学を身につけたことも、後の彼の宗学論の大きな特徴となっている。
またこの間彼の日蓮聖人に対する敬慕は高まり、情熱的な日蓮信仰家としての人格が養われていった。
留学後はそれまでの教学研究の成果を次々と発表し、当時日蓮宗を席捲していた智学の反充洽園教学に鋭く迫り、宗学の若手第一人者としての名を挙げていった。
明治三七年東京大崎に日蓮宗大学林(後立正大学)が移転するや教授に就任。
同年三五歳の若さで本山日本寺の三三二世の法灯を継承。ここに龍山は名実共に日蓮宗宗学の責任者として立ったのである。
大学での活躍はめざましく『大崎学報』を発刊して宗学論を展開し、自ら高名な学者を招いて大学内を充実させ、学徒を厳育して大崎の大学を日蓮宗の最高学府として確立した。
(昭和四年=一九二九=学長、昭和一〇年再度学長就任)。
大正五年には当時清水梁山らによって唱えられていた天皇本尊論を、日蓮教学を歪めるものと危惧し、『偽日蓮義真日蓮義』を著して国体論的曲学の風に警笛を発し、時勢に仰合する清水梁山・高佐貫長らとの間に激しい論争を展開した。
次いで『天台日蓮対照論述法華経要義』を出版、自己の宗学の枠組を完成。
大正末期には田辺善知・本多日生らとの有名な本尊論争が始まっている。
『本門本尊論』がその間の論文で、優陀那日輝の本尊論を継承しながら新たな龍山独自の展開をもみせている。
昭和に入ると山川智応との間に「己心論争」が惹起し、国柱会教学に対して基盤としての天台学・優陀那宗学を踏まえ、己心を凡夫の一念と規定している。
このように日蓮宗学の樹立に寝食を忘れ、宗門と大学のために第一線に立って論陣を張ったが、世は次第に軍国主義におおわれ、きわもの的国体主義者から「不敬反逆者」と攻撃され、時代と宗学との関連に苦慮する日々が続いた。
昭和一六年、第二次世界大戦に突入する年、古稀をもって学長を辞任。
昭和一八年、法主国従を叫び、時代の嵐の中で日蓮教学の純粋性を守ることに尽力した七四年の生涯を閉じた。
戦後の立正大学では訓詁主義に徹した龍山の宗学に対する批判と修正がなされ現代宗学が模索されている。
清水龍山著作集刊行会編『清水龍山著作集』二巻(東方出版・昭和五四年)には『立正観抄大旨』『日蓮聖人の学説の由来に就て』『日蓮聖人と法華経』『法華中心の仏教統一』『十不二門註疏考』『仏界縁起論』『観心本尊抄要義』『法華開顕の大旨』『寿量顕本論』『木画本尊論』『本尊義に就き本多日生師の会下時友仙治郎氏の妄を弁ず』『開目鈔の目を開いて本尊抄の本尊を拝せよ』『本多・時友二氏の公開当書を読みて日宗新報及若人読者に寄す』『再び「天照太神等に就て・天照太神は本地,釈迦は垂迹」を読む』『興門教義に対する一研究』『『日蓮宗の安心』を読む』の諸著が収載されている。
《高橋謙祐「清水龍山」『近代日蓮教団の思想家』》