妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

清水梁山

しみずりょうざん #3989

清水梁山

しみずりょうざん

(一八六五-一九二八)
明治から大正にかけて、当の正統派とされていた新居日薩らの充洽園学派を、宗義に背くものと批判し、時代に即応し時代を導く教学として「天皇本尊論」を唱え、正統派から異端視された宗学者。
慶応元年に生れ、明治九年(一八七六)、脇田堯惇と共に新居日薩の門に入って得度した。 田中智学新居日薩批判に次いで、日薩の学風を批判し、忌緯にふれて、明治一四、五年のころ、破門されたという。 破門後は天台宗深大寺の堯欽に学び、遂に天台宗に転じ、権律師に任じられたという。 明治二五、六年には、名古屋で日蓮本宗教会を結成した。 その後、明治三七年には日蓮宗の僧籍を回復し、池上栴檀林で久保田日亀のもとに講主となり、加藤文雅の『宗乗義録』の刊行を扶けた。 明治四〇年ころには、名古屋で唯一教団を組織し、法華神道を鼓吹した。 また大正三、四年(一九一四-一五)頃には、日蓮宗大学の師となったこともある。
大正四年の大正皇の御大典に日蓮宗から川合芳次郎が、自身が管理する京都灯明寺で発見したとし、稲田海素が「後世野心家の作ならん」と否定したが献納することに到った紺紙金泥奉写・蒙古調伏曼荼羅(奉献本尊)の肯定論及び制作に携わったと思われ、清水龍山は『偽日蓮義真日蓮義』で厳しく論破を試みた。
大正六年一月一九日、浅草統一閣で本化聖典研究会の発会式をあげ、一月二八日には、『本化聖典講義』第一巻を刊行したが本多日生とは後に決裂。また立正大学からも退くことになった。 晩年には駒沢の曹洞宗大学(いまの駒沢大学)に招かれて、日蓮学をじた。
このほか著作として、初期のものは、論説として『日宗新報』に発表されたものが多く、明治二三年の「日蓮宗教義大同合一論」「祖書真疑録」、同三五年の「木像廃止論」、同三六年の「本尊要義」「宗祖本仏論」「本法三段」などがある。 また同三七年から池上栴檀林で刊行した『宗乗講義録』六巻の中には、「祖書学概要」「宗学綱領」「御義口伝義」などがある。 同三九年から大正八年にかけて宗典刊行会から『高祖遺文録集註』二一巻を出した。 明治四二年から大正二年には唯一教団から『御遺文講義』二〇巻と巻外一冊を出し、同四四年には、主著『日本国体と日蓮聖人』を著している。 大正一二年には、明治三七年に著した『浄土真言宗』を改訂して『日蓮聖人より見たる親鷺』を出し、昭和三年(一九二八)、絶筆となった『日蓮宗綱要』が門下の高弟・高橋善中によって遺著として出版され、昭和五年には駒沢の曹洞宗大学で講じた日蓮学を、田辺惜道が編集して『日蓮聖人の世界統一の本尊』と題し出版した。
その学の根本は、種脱勝劣の立場から、富士派と同じように読誦謗法、造像否定、宗祖本仏論を強調している。 そして日蓮聖人本仏と信徒との単なる仲介者と見るのは誤りで、聖人の肉身をそのまま久遠実成の妙体と仰ぎ、それは今上陛下を照大神のご神体と仰ぐことに等しいと論じた。 更に玄題の七字は唯一本仏の宝号の正体で、それは日本国の天皇によって具現されるものであるから大曼荼羅の首題は、わが皇の宝号であると論じた。 そのうえ聖人三大秘法を、本門の本尊は日本国の天皇、戒壇は日本国の天治、題目は日本国の天法を明らかにしたものであるとし、大曼荼羅日本国体の相を図顕したものであるとした。 この考えは高弟の高橋中によって昭和一二年『天皇本尊建立』となって刊行され、天皇本尊論を更に進めて主法従の政一致を説いた。
また一三年には、梁山の学説に傾倒した高佐貫長(日煌)が皇道教を提唱し、一六年に皇道仏教行道会を結成するなどの影響を与えた。
《上杉清文・末木文美士『現代世界と日蓮』(春秋社『シリーズ日蓮』五)》

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