日蓮本宗
日蓮本宗
にちれんほんしゅう
京都要法寺を本山とする日蓮系の宗派。
天文法難後、日興門流の上行院・住本寺の二寺は合併されて、五条坊門堀川に再興。
要法寺と号して、弘治元年(一五五五)広蔵院日辰(一五〇八-七六)が迎えられて最初の貫首となった。
日辰の教学は常不軽院日真に負うところが多く、寿量品正意、本果下種為体論はその影響であったと考えられる。
そして、本尊論では、人法両義を認め、本果為体論の立場から、久遠の釈尊をもって正しく本尊とするのである。
以降、この要法寺系では仏像を造立して本尊を奠定したが、江戸の元禄、享保の頃、大石寺に日寛が出て教学を大成し、興門の教学は日寛の教学によって風摩され、要法寺にもその影響が大であった。
二六世日眷の代に本尊問題が起って、常照日体が分立し、二八世日全に至っては仏像を撤去して曼荼羅一幅一体式を採用、二九世日慈は不造論を鼓吹し、曼荼羅本尊を強調。
三〇世日良は日眷の法令を撤回して日慈の説を布衍。
かくして、三一世日住の時に至り京都十五山の本尊様式は雑乱勧請の謗法であると評したので、ここに要法寺対十五山の対立係争となった。
さて、この門流には代表的な学僧一五世圓智院日性があって多くの著書をなした。
また二〇世恵光院日瑤、二四世信行院日饒、二五世随信院日舒があって日辰教学を紹述。
本尊論は先述の通りであるが、とくに三一世守信日住(一七三六-一八〇二)は種脱勝劣判による釈尊脱仏、宗祖本仏論を主張し、京都諸山との本尊論争となるのである。
しかし、その本尊論争は以降対内の論争として継承されるのである。
明治に入って、日蓮宗勝劣派に属し、明治九年(一八七六)興門派と公称した。
明治三二年二月日蓮宗興門派を本門宗と改称。
昭和一六年(一九四一)三月、戦争完遂の協力体制推進の手段として、日蓮宗、顕本法蓮宗、本門宗の三宗は合同して日蓮宗と称した。
その後昭和二五年九月要法寺は日蓮宗より分かれて日蓮本宗と号して宗教法人として登記し、次いで同二八年六月に認証を受け、今日に至っている。