坊
坊
ぼう
「坊」という概念を一言でいうならば「僧侶の住まい」ということになるが、その実体は実に様々である。
従って、ここでは「坊」の実態について具体的に述べ、全体的な観念を導き出したい。
近代以前の日蓮宗寺院の仕組は、現在とはかなり異っていた。
即ち一山の中央に仏堂や御影堂を始めとする諸堂があり、これを囲むように塔頭寺院がある。
これらの塔頭寺院を「院」または「坊」と呼んでおり、貫首(=住持)はその中の一に住んでいた。
このように貫首の住まっている塔頭寺院を大坊・本坊・貫首坊・住持坊・本院などと呼んでいる。
これに対して他の坊は住持に随って仏事を行い一山の運営に当った。
その実例をあげると、中山法華経寺には慶長一一年(一六〇六)九月一三日に作成された『護代帳』が伝わっている。
この史料を検討すると、
(1)中山法華経寺の貫首が住まっているところを「本院」または「大坊」と呼ぶ。
(2)貫首の行うべき権限を分担して、中山法華経寺とその一門の寺々を統率していくのが、四院家(法宣院・浄光院・安世院・本行院)である。
(3)「大坊」のもとには梅本坊・福寿坊・氏本坊・浄鏡坊などの坊が従属している。
(4)中山法華経寺の檀那(=信者)は、本院か他の四院に所属する。
(5)本院(大坊)の檀那は貫首の判断によって、大坊に属する(大坊直弟と称する)か、他の坊に配属される(守代と称する)。
これらの諸点を考えると「院」は貫首の権限を分担する立場にあり「坊」は貫首(大坊)に直属してその任務に従うという立場にあったことがわかる。
しかもこのような型式は池上本門寺においても同様であったと思われる。
日蓮宗が空前の発展を示した一四―五世紀の京都では「法華の僧坊」の記事が頻繁にみられる。
『康富記』応永二九年(一四二二)二月八日の記事によれば、園天神南方にあった法華僧坊二〇棟ほどが、失火によって全焼してしまったという。
また日蓮宗信者として有名な公家の近衛政家は、しばしば本満寺や本国寺へ参詣し、本堂で法要を行った後「住持坊」「教林坊」等といわれる「塔頭坊」で休息するのが例であった。
時には「或僧坊」へ出掛けて説法を聴聞し、随喜の涙をこぼすこともあった。
これらの事実からみれば京都における日蓮宗の坊には、二つのタイプがあったことが窺われる。
即ち一は前述のような大寺院の塔頭としての坊であり、二は町中にある僧侶の住居であり説教所を兼ねていたのである。
このような「坊」のうち後者がやがては寺号を称して、いずれかの大寺の末寺として成長することになる。
町や村の布教施設としての「坊」は、関東地方においても数多く見られるところである。
中山法華経寺日祐の弟子として活発な伝道活動を展開した法宣院の日英は、応永二四年八月に「日英末寺等支配注文」という文書を書いた。
この中に村落の信仰施設と思われる「講」「講坊」「講演」「御堂」等が、その地名を冠した形で示されている。
従って、中世の日蓮宗の伝道活動は、この「坊」を前進基地として展開されたということができる。
換言すれば、このような「坊」をいかに多く設置することが出来るかどうかに教団発展の如何がかかっていたのである。
ところで、もう一つ坊の役割を指摘しなくてはならない。
身延山久遠寺には「身延山房跡録井日本国参詣宿房定」という記録がある。
これは日本全国から身延山に登詣する信者を宿泊させるため、その地方担当の坊を割り振った記録である。
近世に盛んに行われた身延詣は、坊の果した宿坊としての役割に負うところが大きかったのである。