妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

宿坊

しゅくぼう #1799

宿坊

しゅくぼう

宿泊すべき寺の意。 また宿房とも書き、宿院ともいう。 ち出張の僧または参詣人の宿泊に当てられた寺をいう。
古来より身延山あるいは高野山・比叡山などにおける支院の多くは、参詣人を宿泊・休息させて、諸堂の参拝、法会の案内、納骨開帳の取次ぎ等に参詣人の便をはかってきた。 あるいは転じて檀徒が自分の所属する僧・寺を呼ぶときにも宿坊といい、また僧侶自身が自分の僧坊をいうときにも宿坊という。
身延を例にとれば、身延山は本院(久遠寺)と、それを中心とする多数の支院の複合寺院の形態をなしている。 支院は本院に全面的に依存して成立し、かつ維持されてきたものの、当然のことながら、支院もまた文字通り本院を支えてきている。 その一つに身延参詣の善男善女に宿泊の便宜を与え、参詣における万般の世話を引受けて参詣に便ならしめ、ひいては身延山の維持、発展に寄与するという支院の在り方があった。
身延二二世日遠代の慶長九年(一六〇四)制定の『町中掟』は、「参詣の衆たとひ不如意の仁なりとも一宿も致すべからざる」と、町中に参詣人を宿泊させることを禁じている。 のちに十返舎一九が文政二年(一八一九)出版の『金の草鞋身延道中記』で「みのぶのまちにやどやなし。 しんじんのやどはそのくにぐにのてらにより、の中にてさだまりありて、しんじんのやどをするなり。 とうざんへさんけいするに、このしうもんの人々はかねてそのあんないそのこころへあるべきことなり」と述べているように、参詣人は町中へは宿泊せずに、甲は甲坊、乙は乙坊などと、参詣人の檀那寺によって宿泊すべきが定まっていた。 これを宿坊割という。
本院は宿坊割によって、諸国より参詣してくる信徒の「奏者」―参詣人を本院へ取次ぐ役―として宿坊を位置づけ、本院―宿坊―参詣人の形で諸末寺・信徒を把握した。 参詣人の側にしてみれば、身延登詣がしばしばである人にとっても、あるいは身延に不案内な人にとっても、身延山内に宿泊等万端の世話役がいるということは安心この上もないことであり、また必要なことでもあった。
身延における宿坊が史料的に明らかになるのは比較的古く、その初見は一四世日鏡にまでさかのぼることができる。 日鏡は自ら草創した法雲坊へ、その維持、相続のために江州一国門徒の宿坊を定め置いたが、次の一五世日叙は、永禄五年(一五六二)に佐州と甲州の六条門徒を追加付与し、更に三一世日脱が、元禄五年(一六九二)に妙照寺門中を法雲へ新たに付け置いていた。
また、端場と桶沢に一七世日新および一三世日脱の宿坊割が所蔵されている。 それは次のようなものである。

    端場奏者参詣之衆
  当門徒   同
   丹後   但馬
  京都
   本隆寺門
    右所定如件
  正廿年壬辰
      卯月吉日 日新(花押
    端場奏者参詣之衆
  丹後   但馬
   当門徒   当門徒
  京都
   本隆寺門
    右日新聖人御書出有之
  相州     下山
   妙純寺門中  本
    今般新付置之者也
  元禄五年壬申正月十三日
           日脱(花押

桶沢所蔵のものもこれとまったく同形式・同日付である。
この宿坊割にある「当門徒」とは、身延山久遠寺の直支配末寺および門徒をさし、「諸門徒」とは他の諸門流・諸本山とその末寺および門徒をさしている。
日鏡の手創にかかる法雲坊への宿坊割は、法雲坊の相続、維持のために日鏡とその嘱をうけた日叙によってなされたが、他の諸坊に対しても、おそらく個別的に機会を捉えては宿坊割がなされたと思われるが、この期のこれ以外の史料は見出しえない。
身延山内支院に対して、同時に全体的に組織的になされた宿坊割は、端場坊と桶沢坊に所蔵される宿坊割からみて、同日付・同形式で付け置かれているこの正二〇年(一五九二)日新によるものが最初であろう。 しかし、付け置かれたことによって、宿坊と付け置かれた寺・門徒との間に新たなる関係が生じたということはむしろ少なく、ほとんどはそれ以前からそれぞれの縁によって宿坊としていたものを、ここに至って本院貫主がその関係を確認し、改めて許可するという形にしたものであろう。
元禄五年の日脱による宿坊割の新たなる追加は、その前年の悲田派禁止の結果である。 延宝八年(一六八〇)四代将軍綱の葬儀に際し、悲田派も寛永寺に諷経し布施を受けたことから、身延の日脱、池上の日玄は小湊誕生寺日明・碑文谷法華寺日禅・谷中感応寺日純らの悲田派を邪義であるとして訴え、幕府は元禄四年四月二八日両者を召し合せ、日明らを不受不施の邪義を弘めるものとして断じ、悲田派を禁止した。 法雲坊への佐州一谷妙照寺門中、端場坊への相州妙純寺門中、あるいは史料は掲げなかったが桶沢坊への武州谷中感応寺門中は、いずれもこの時禁止された悲田派であって、これら諸寺の支配権が、受不施側、とりわけ受派を代表した身延の手に帰したことを物語っている。 また元禄一二年五月には、やはり悲田派であった碑文谷法華寺が幕府より身延末寺と定められると、時の三二世日省は、法華寺と同じく中老僧日源を開基とする西之坊へ「奏者宿坊の儀前々の如く相い勤むべし」と、改めて奏者宿坊のことを再確認している。
このように宿坊割は機会あるごとに定め置かれたもので、それは無原則に行われたのではなく、法縁関係等の何らかの縁をもって定められ、むしろ現実に結ばれている関係を、貫主がそれを追認していくということの方が多かったであろうと想像される。
この宿坊は一九世紀に入ると崩壊を始める。 町方の力が強くなったり、参詣人が増えてきたことなどにより、町中への止宿禁止が弛んできたのである。 保六年(一八三五)四月には止宿禁止を再確認したものの、同年一〇月には会式中当国ち甲斐の内からの参詣人に限り、町中に止宿させることを許さざるを得なくなったのである。
現在、身延山内には二〇数ヵ坊の宿坊と数軒の旅館があり、宿坊割はなされていない。
《林是晋「身延山支院の研究―宿坊について―」『日蓮教学研究所紀要』一号》

図版

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