法雲
法雲
ほううん
(四六七-五二九)
光宅寺法雲、略して光宅、光宅法師とも。
梁の武帝が金陵(今の南京)に光宅寺を創立し、勅して法雲を光宅寺の主としたので光宅寺法雲と称せられる。
開善寺智蔵(四五八-五二二)・荘厳寺僧旻(そうびん)と共に梁の三大法師とたたえられている。
法雲は姓は周氏、江蘇省義興県の人で、七歳にして出家し、法雲と称した。幼い頃より英秀の誉れ高く、僧印から法華経を学び、また智蔵・僧旻と共に慧次(四三四-四九〇)から『成実論』『三論』を学んだ。
法雲は『勝鬘経』や『涅槃経』にも通じ、これを講じた。
三〇歳の時、初めて妙音寺において法華・浄名の二経を講じたところ、聴衆が堂に満ちあふれた。
縦横に論ずる講経の妙は当時に独歩し、人々は感歎して法雲を「作幻法師」と呼んだ。
法雲は沙弥の頃から法華経の講義を聞いて研鑽し、ひとり奥深い山中に入って石を立てて聴衆とし松葉を拂として講経の練習をつんだ。
後にしばしば法華経を講じ、聴衆をして感歎せしめたのはこれによる。
その著『法華義記』八巻(『正蔵』三三巻)が現存する。
これは中国における現存の法華経註釈書の中では、竺道生(三五五-四三四)の『妙法蓮花経疏』に次いで古いもので、『涅槃経』によって法華経を解釈したところにその特色がある。
隋の天台智者大師智顗(五三八-五九七)や隋・唐の嘉祥大師吉蔵(五四九-六二三)は、法雲の涅槃経重視を批判しつつ自説を立てた。
特に吉蔵は法雲を四車および法身無常の説をなす者として強く批判した。
梁から隋にかけて法雲の所説が盛んに行われ、智顗および吉蔵はその影響を強く受け、これを批判しながら自説を確立したのである。
なお『法華義記』はわが国の聖徳太子(五七四-六二二)の『法華義疏』に大きな影響を及ぼした。
日蓮聖人は『報恩抄』に法雲の謗法を指摘し、法雲の死後謗法を糺弾し法華最勝の正義を明らかにした天台大師の功績を称賛されている。
即ち南三北七の十流のなかでも南三の第三(慧観の五時教)の法雲が華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三の邪義を立てたのは万民を誑惑する堕地獄のしわざであり、天台大師は陳帝の御前において法雲の弟子と対論して邪義を破し、法華最第一(法華第一・涅槃第二・華厳第三)を論証されたのである。
《『正蔵』五〇巻「続高僧伝」五、塩田義遜『法華教学史の研究』、『遺文辞典』歴史篇「法雲」の項、『岩波仏教辞典』「法雲」の項》