四院家
四院家
しいんげ
中山法華経寺を本山とする中山門流では、日蓮宗の中でも早くから寺院体制が整っていた。
特に浄光院・法宣院・本行院・安世院という本院を囲むように配置されている塔頭の四院の住職が、貫首を扶けて内外の折衝に当ったことは重要で、この体制を「四院家制」と称している。
四院家の序列は時期によって少々の相違があり、文禄三年(一五九四)七月の「法華経寺四院主連署回状」には、浄光院・法宣院・本行院・安世院の順となっている。
次いで慶長一一年(一六〇六)四月の「本末連判帳」によると、法宣院・浄光院・安世院の順となり、本行院を欠いている。
この後、江戸時代を通じて、中山法華経寺の内外に対する重要な文書や記録には、四院家の住職が必ず連署している。
近世における中山法華経寺一門の教団運営に当って、四院家が大きな発言力と重い責任を荷っていたことを、当時の古文書はよく物語っている。
しかし明治になると四院家の権限は急速に弱まり、昭和の本末解体によって完全に消滅した。
ただ浄光院と法宣院に伝わる本尊曼荼羅や古文書、日蓮聖人の御影などが、四院家のかつての栄光をよく物語っている。
ところで、この四院家制はいつ頃成立したかということについて、いくつかの説がある。
まず中山法華経寺の体制が全体的に整備された日祐・日尊の時代という説がある。
浄光院の成立もほぼこの頃とみられるところから、この主張が支持されている。
しかしながら中世の古文書や記録などを見ると、四院制を思わせるようなものはまったく見当たらない。
浄光院文書、法宣院文書を見ても、四院の語はなく、初めて現れるのは先にあげた文禄三年の「法華経寺四院主連署回状」である。
これらの事実からみると「四院家制」が制度的に整えられたのは、やはり近世になってからのことと考えた方がよさそうである。
しかもこの制度は、上方三山輪番制によって、貫首が上方から交替で下向するようになると、果たすべき役割が更に大きくなったといえる。
中世においては、「四院家制」という制度こそなかったが、この四院が教団の中に占める地位の高かったことは決して否めない事実である。