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塔頭

たっちゅう #1260

塔頭

たっちゅう

もとは、禅宗寺院で、開山や高徳の僧が亡くなった後に弟子たちがその遺徳を偲んで建てた小寺をいう。
塔とは所のことであり、頭は「ほとり」という意味をもつ。
その多くは大寺の境内に営まれ、弟子たちがここに住んでいた。
日蓮宗でも早くからこの様式が大寺に取入れられ、墓堂が営まれて「塔頭」と称された。
その例を挙げると、次のようなものがある。

(1)身延山に営まれた日蓮聖人の墓所には、墓堂としての「大聖人の塔頭」が建てられ、ここには金箔を施した板本尊が安置されていた。
中山法華経寺三世貫首の日祐は、この塔頭と板本尊の造営・修造に結縁している。
これは恐らく康永元年(一三四二)四月のことで、母を伴って身延山に登山した日祐は、御塔頭の柱立に臨み、日蓮聖人の御舎利を拝している。
(2)中山法華経寺二世貫首日高の墓所にも塔頭が営まれている。
日祐は康永三年にこれを修し、更に応安元年(一三六八)には屋根の葺替えを行っている。この五輪塔が造立されて堂内に安置されている。
当寺初代貫首日常の塔頭もこれと同様に営まれたようにも窺われる。
ここに挙げた例は、日祐の『一期所修善根記録』の記によったもので、他に例は多いはずである。
身延山の山内寺院が、それぞれ六老僧を始めとする高僧の遺跡と称しているのは、塔頭の本来的な系譜を留めているといえる。
また塔頭が独立して寺院となることも多く、日像の塔頭は後に深草宝塔寺となり今日に至っている。

塔頭」には、もう一つの意味がある。
大寺の本堂を中心として境内に建てられた僧侶の住居のことで、「塔中」とも書く。
これは一般に「○○院」(院号)とか「△△」(号)と称し、一寺の運営を分担する。
古くからよく言われる「一山」とは、その住持を中心とする塔頭に住むすべての僧侶全員のことである。
これをもっと明らかにするために、実際の例をひいて説明しよう。
(3)中山法華経寺では、かつて四ヵ院と多数のがあった。
貫首の住む所を「本院」とよび、四院家(法宣院・浄光院・安世院・本行院)が貫首を助け、寺院の運営についての強い権限と責任を持った。
その下に十数ヵがあって、寺務を分掌する仕組みである。
(4)室町代の京都では、妙顕寺・本寺を始めとする日蓮宗の諸大寺が勢力を誇った。
そのうちの一つ、本法寺の法度をみると「寺内に舎を構う仁」「寺内に於て宇を造立あらむ人」の規定があって、の存在が確認できる。
の日記類には日蓮宗の「僧房()」のことが、しきりに現れている。
このように日蓮宗の大寺における塔頭は早くから形成され、それぞれ重要な役割を果してきた。
江戸代初期に著された中山法華経寺の『護代帳』によると、貫首の住む建物を「大坊」とよび、大坊直属の信者たちは各に付属させられたようである。
とにかく大寺院塔頭は、その大寺院の中に包括されるものであったから、本来は独立寺院とは認められなかった。従って江戸幕府へ提出する日蓮宗の『寺院本末帳』には、塔頭の名称はまったく現れてこない。
塔頭が独立寺院として認められたのは、近代にはいってからのことである。
塔頭の名称について「院」制をとるものとしては、京都の諸山(妙顕寺・本国寺等)や池上本門寺の例がある。
」は身延山久遠寺にみられ「院」「坊」共用とするものには中山法華経寺がある。
中山法華経寺の場合には、四院家が超越的な地位にあって貫首を援けているが、これは上方三ヵ寺による貫首の輪番制度という特殊な情によるものであり、院との優劣は問題にならないようである。
塔頭に住む一門の僧侶が果すべき役割については、寺院格によってまことに様々である。
基本的に言えることは、本堂における朝夕の勤行に出仕すること、お会式千部会等の大会を執行すること、布教活動に従事したり、檀信徒の指導に当ることなどである。特に勤行への出仕は厳しく義務づけられていた。
これも近代になってから行われなくなり、戦後にはそれぞれが宗教法人として全く独立した。
この点において「塔頭」という言葉は現在の団では完全に死語である。
なお塔頭のことを「支院」とも呼ぶ。
『日蓮辞典』「塔中(たっちゅう)」の項、『史大辞典』九巻「塔頭」の項

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