墓
墓
はか
インドでは人の死屍を葬むるのに風・水・土・火の四種があり、屍(なきがら)を風は獣鳥に、水は魚族に、土は草木に供養するの謂である。
わが国では土葬が主で土饅頭(円墳(えんふん)、天皇は前方後円の形を用いた=天智天皇等)。
墓とは「果處」(ハテカ)で、「葬處」(ハフリカ)とも称し、人の屍を埋め葬むる所、霊の安らぎの處、慰霊追慕・祭祀供養の場で、葬所・薨(はかば)・墓域・霊塋・墳(つか)・壙(つかあな)・丘墓・冢墓(ちようぼ)・墓田(ぼでん)・墓兆・丘(おか)等の称呼がある。
艹(さく)・旲(ひかげ)・土(つち)を以て仏教の伝来(流布)によって追福菩提、祖先崇拝の思想により石造塔婆(墓碑・五輪塔・板碑など)を建て、これを墳塔・冢塚・雁塔と称し、生前中に造営する風習も生じ、これを寿陵或は寿蔵といった。
『古事記』は陵(みささぎ)を「ハカ」と訓じ『古事記』仁徳天皇五八年(三七〇)の条には荒綾(あれはか)とある。
『種種御振舞御書』には「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野(鳥辺山)のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし」とある(定九七一頁)。
元来墓碑は釈尊の舎利を奉安した仏陀伽耶の塔造立以前の覆鉢塔の型が中国朝鮮を経て我国に伝来した「日本創作」で、僧は無縫塔・卵塔・円珠塔或は天然の川石を用いた(小川泰堂)。
わが国の墓の形は山岳宗教の発達により、その形は修験道の碑伝(ひで)を源流として板状・長方形で頂部を三角形、その基部に横二段の溝を刻み身部に七字題目(鎌倉以降)或は種字又は仏像を刻し、その下に法名・記年等を刻むようになったが、時代と共に変化し地方によって異なって今日に到った。
徳川期以後から大名藩主等は宝篋印塔を造するようになった。
又宝塔型一名法華塔、或は「五輪塔」も墓石として用いられた。
建治二年(一二七六)三月、旧師道善遷化の訃報に接した聖人は『報恩抄』を遡し、弟子日向を清澄に遣わし墓前に展読せしめ、また弘安二年(一二七九)七月二日、阿仏坊の子藤九郎守綱は父の遺骨を身延山聖居のほとりに埋葬している。
そして日蓮聖人の御廟は、弘安五年「九(箇)年まで御きえ候ぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、墓をば身延沢にささせ候べく候」との遺言により身延山に建てられた。
(『波木井殿御報』定一九二四頁)。
爾来身延山法主は自ら「守塔沙門」と称した。
六老日興はその墓を身延に面して造立するように遺言し、深草元政は墓石の代りに「三幹の竹」を以てした。
廟とは墓石の上屋があるのを廟と尊称した。
身延御廟所、池上宗祖御廟、小湊妙蓮寺両親廟或は日光家康の廟(一名を霊屋(おたまや))などである。
或は遺体(ミイラ)三体を須弥壇下に藤原三代を祀る平泉中尊寺金色堂などもある。
元来、墓碑は各々建立すべきであるが、最近では墓石に被葬者の法名・没年月・俗名を刻んで、その霊を祀ったが、最近では「墓誌」と称して屏風型の碑に連名で刻む例が多く、殊に最近では「霊園」も各地に造営され、一定の墓碑で統一されるようになった。
これは時代の変遷というべきものであろう。
《『大崎学報』、『山田日真掃苔録』、『仏教考古学講座』、石田茂作『日本仏塔の研究』、『遺文辞典』教学篇「はか・墓」の項》